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ネパール評論

ネパールを通して,日本と世界の人権・平和・民主主義を考える
7/3/2009

マークス説批判:プラチャンダはファシストか?

 谷川昌幸(C)
プラチャンダ議長(前首相)は,人民戦争の英雄だが,まとまった伝記は今のところ一つしかない。
 
Anirban Roy, Prachanda: The Unknown Revolutionary, Mandala Book Point,2008
 
この本については,すでに紹介したので,詳しくはそちらを見ていただきたい。一言で言えば,人民戦争の分析は表面的だが,プラチャンダの生い立ちやマオイスト運動の大筋をつかむのには便利な本だ,ということである。何よりも,平明簡潔な英語で書かれているので読みやすい。
 
このロイ著『プラチャンダ』について,最近,トマス.A.マークス教授が,手厳しい書評を書いた。
 
Thomas A. Marks, "Will the real Prachanda stand up?," ekantipur, 22 Jun.
 
マークス教授は,米国軍事アカデミーを卒業し,ハワイ大学で途上国の人民反乱を研究し博士号を得た。現在,アメリカの「国防大学(NDU)」教授で,途上国人民反乱やテロリズムを研究している。
 
この経歴からしてマークス教授の立場は容易に推測できる。タカ派であり,この書評でもマオイストやプラチャンダを容赦なく断罪している。
 
マークス教授によれば,マオイスト研究においては,リーダーと地域活動家,中核部隊と下部組織の関係の分析が重要である。この観点から見ると,プラチャンダが地域闘争をどこまでコントロールしていたのか,疑問だ。また,プラチャンダとインドとの関係にも,疑問が残る。
 
次に,人民解放軍については,中核部隊は氷山の一角であり,武器も隠されているものは数えようがない。マオイスト駐屯地には,地方部隊も急募兵もごっちゃに収容された。UNMINは数え間違えたというよりは,誰を「戦闘員」とするか明確でなかったため,「本物のゲリラ」以外のものまで数え上げてしまった。
 
マークス教授によれば,プラチャンダ議長は権力を奪取し人民共和国を樹立することを目指している。
 
方法は二つ。(1)平和的権力奪取=現体制をそっくりマオイストへ全面降伏させる。(2)暴力による権力奪取=激しい街頭直接行動により権力を奪う。
 
ロイ著『プラチャンダ』は,これら決定的に重要なことについて,ほとんど分析していない。しかし困ることはない,とマークス教授はいう--
 
「他に(文字通り)何千もの回答があるからだ。大戦間のファシズム勃興に関する文献のどれか一つでも読んでみよ。そこには,いまネパールで起きていることが,はっきりと書かれている。[ナチス]突撃隊の名ではなく,別の名称[人民解放軍]が使われているので,その罪悪が見えないだけだ。」
 
マークス教授の書評は,教科書のように平明なロイ氏の文章とは逆に,まったくもって難解晦渋,正直,よく分からないところが少なくない。文章だけなら,ロイ氏の方が何倍も優れている。どの国でも,強面タカ派は難文をありがたがるようだ。
 
そして,マオイストをファシズムと同視するのは,あまりにも単純だ。マオイストがナチスなら,プラチャンダはさしづめヒトラーというところか。
 
これは,マオイストやプラチャンダの誉めすぎである。どこをどう見ても,彼らはナチスほども近代的・合理的ではない。綱領など建前は近代的・合理的なのだが,実際の行動はコテコテのネパール風,微妙に前近代的かつ近代以後的だ。
 
そのマオイストをナチスやヒトラーにたとえるのは,的外れである。人民反乱・テロリズムの専門家とは思えない杜撰な議論だ。
 
ブッシュ前大統領もそうだったが,アメリカのタカ派は,あまりにもイデオロギー的すぎて,現実をリアルに見ることが出来ないようだ。マークス教授も,タカ派イデオロギー過剰で,マオイストの現実が見えていないといわざるを得ない。
 
これに比べ,酷評されているロイ氏の本は,分析は表面的だが,少なくともプラチャンダ議長のパーソナリティや人民戦争の概略を知るには,便利だ。なによりも,読みやすいのが,平民にはありがたい。
6/29/2009

コミュナリズムの予兆(7)

谷川昌幸(C)

コミュナリズム(宗教対立主義)は,南アジアでは,日本では想像もできないほど深刻な問題であり,今回の教会爆破事件についても,盛んに議論されている。この場合,人々の本音がよりよく分かるのは,新聞記事などよりも,むしろ投稿やブログなどである。

たとえば,Republicaブログのデワカル・チェットリ「教会爆破犠牲者」記事についての投稿は,6月29日現在,33通に上る。チェットリ氏か編集部が多少取捨選択しているのだろうが,なかなか水準が高く,しかも本音がストレートに語られており,興味深い。以下に,典型的なものをいくつか紹介する。(紹介文は意訳。RepublicaはややNC=ヒンドゥー教寄りの新聞。)

■5/29 vivek rai
何も悪いことをしていないのに爆殺するのは,許し難いことだ。これは,わが国が宗教対立に向かう兆しだ。イラクやパキスタンのようになってはならない。

■5/31 kanagawa(神奈川)
このネパール教会の惨事は,この国で進行している根深い問題――強制的改宗と金銭による改宗――を表面化させた。多くの宣教師団が政党を買収し政策を変えさせた。この国のヒンドゥー教徒や仏教徒は一般に寛容で誰にでも好意的であるのに,露骨なキリスト教福音伝道がその彼らを激怒させはじめた。いまでは彼らは,宣教師団が彼らの優しさにつけ込み,この国の古来の文化を公然と掘りくずしている,と感じている。

■6/2 Johan
国内で起こっている混乱の最後のものが宗教的不寛容だ。わが国は世俗国家を宣言したが,それで生活がどう変わったのか? 教会やモスクのような宗教寺院に爆弾を仕掛けるのは,残念ながら,ヒンドゥー教社会の外部社会に対する宗教的不寛容を示すものだ。こんな事をしても,ネパール国民の直面する危機の解決にはならない。皆で協力し,この国の社会的,経済的,宗教的向上に努力しようではないか。

■6/2 Aryan
ヒンドゥー教は,兄弟や姉妹が数千ルピーでキリスト教に誘い込まれるのを座視するほどに,寛容であった。神聖な寺院の爆破は言うまでもなく反人間的ではあるが,しかしキリスト教会も,彼らの改宗政策がヒンドゥー教活動家を攻撃的にしてしまったことを反省すべきだ。

■6/3 Prabhakar
私は20年以上前にカトリック信者になったあとも,ヒンドゥー教徒,仏教徒,イスラム教徒を尊敬し,彼らの近くで生活してきた。教会は,私が知る限り,他宗教からキリスト教に改宗させるため,人々に金銭を与えるような政策は採っていない。残念ながら,ある種の経済的利益を理由に宗教を変える人が何人かいることは事実だ。しかし,だからといって,このことの故に教会が非難されるべきではない。教会は,イエスとその教えを宣べ伝えている。そこには何の問題もない。それに,私自身,子供の頃は,マハバラータやラーマヤーナを観て楽しんでいた。相互理解すれば,宗教の調和は実現する。もしそうでなければ,われわれ全ては,破滅だ。

■6/3 Aryan
プラバカルさん,多くの人々,とくに下位の人々がキリスト教に釣られていく実例は多数ありますよ。キリスト教の(まるで商品販売のような)訪問販売員がたくさんいます。週末に家に居ると,彼らが訪れ,キリスト教へと勧誘する。皮肉なことに,彼ら自身はキリスト教のことなどよく知りもしないのですが。

■6/3 Hutali(独)
キリスト教宣教師団系の学校や病院に行けば,露骨な改宗勧誘とは何か,なぜ地域住民が怒っているのかが,よく分かる。子供たちは,自分の育ってきた寛容の文化の否定を教えられ,洗脳され,改宗させられる。患者たちは,病気は宗教のせいだとあからさまに告げられ,治りたければキリスト教に改宗せよと迫られる。宗教的調和とは,そんなものなのか? それは,寛容を本質とするヒンドゥー教文化・仏教文化の露骨な搾取にほかならない。

いったいなぜ,これらの狂信的宣教師たちは,かくも他者の改宗に熱心なのか? 彼ら自身がワナに誘い込まれてしまったので,「救い」を得るため,同じワナに他の人々をもっともっと誘い込まざるを得なくなったのか?

西洋の教育ある人々は,ヨガ,ヴェーダ,アーユルヴェーダ,仏の教え,そして,一般に,ヒンドゥー教や仏教の教えがもたらす内面の幸福を発見し,それらに傾倒しつつある。宣教師たちは,キリスト教へのこの関心の喪失を埋め合わせるため,教育のない人々を捜し回っているのではないか?

宣教師たちは,本来寛容であった社会に社会的対立の種をまいているのだ。

■6/4 John
結局,改宗が生活向上をもたらすなら,そうしてなぜいけないのか? 当人が決めればよいことだ。それはいけないと思う人は,強制ではなく,説得を試みればよいのだ。

■6/4 Prakash
キリスト教伝道に対し立ち上がらなければ何が結果するかを見よ――ラテン・アメリカだ! インカのような素晴らしい社会があったが,宣教師たちに対し寛容でありすぎた。ラテン・アメリカのほぼ全ての地域は,完全に自分たちの宗教を失い,文化を失い,生活を失い,結局,自分たちの言語すらも失ってしまった。手遅れになる前に,よく監視せよ!

■6/11 Arun
世俗主義は,国家が宗教と結びつかず中立である,ということを意味する。世俗主義だからといって,宗教が金銭や影響力や力でもって出来ることは何でも自由にしてもよい,ということではない。他国社会の感情を害する行為や活動は,許されない。また,世俗主義は,自由な同意による改宗を意味するわけでもない。改宗させることは,過去・現在・未来において犯罪である。ネパールで一般的な哲学は,広義のヒンドゥー教と仏教だ。その意味で,われわれはみなヒンドゥー教徒であり仏教徒である。もしそのような宗教的平安を乱すなら,教会爆破のような事件は今後も続くだろう。ネパール版BJP,RSSが出現する。選択はわれらにある。

■6/13 Binod
教育がない者がキリスト教に改宗すると考える人々は,最も無知で最も不寛容な人々だ。カースト制の中でしか,ものを考えられない。下位カーストの人々は,自分たちのように知的ではないと思い込んでいる。南アフリカ黒人が解放されたように,下位カーストにもその時が来るだろう。

■6/14 Kasama
ネパールでは,教育のないのは,下位カーストだけではない。教会は,カースト制を道具として利用し,自分たちの優越性を示そうとする。西洋での人種差別と同様,ネパールでもカースト制は違法だ。カースト制は存在するかもしれないが,それを布教に利用することは出来ないはずだ。今日の西洋では,教会こそがゲイや移民や世俗主義に不寛容であり,はるかに差別的だからである。

■6/15 Subba
いずれにせよ,選択するのは,あなただ。誰も,教会やモスクや寺院に行くことを強制できない。あなたが選択し,よいと思った道を進めば,それでよい。

■6/15 Concerned Nepali
教会を爆破した人々は,口実さえあれば,明日にでも寺院を爆破するだろう。それなのに,いったい誰を非難しようとしているのか? イスラム教徒か,ユダヤ教徒か,キリスト教徒か? 爆破の理由は,政治的なものであって,それ以外の何ものでもない。

■6/15 Binod
キリスト教の核心は,人は自由な存在であり,神ですらそこには介入しない,という点にある。だから,ネパール人たちがキリスト教を選ぶなら,それは彼らが望むものを選ぶ権利を持つからであり,それは西洋人が彼らの選ぶ宗教を選ぶのと何ら変わりはない。もしアメリカ人がヒンドゥー教徒になっても何ら問題がないとすれば,ネパール人がキリスト教徒になることを,なぜそれほど恐れなければならないのか?


以上の投稿を読むと,キリスト教布教問題についての論点がほぼ出され,議論されていることが分かる。難しいのは,キリスト教会側にも反教会側にも,もっともな言い分があるからだ。一刀両断とはいかない。

また,この問題は,「kanagawa(神奈川)」という名の投稿があるように,日本とも無関係ではない。投稿が日本人かどうかは分からないが,日本の教会がネパールに相当深くコミットしてきたことは,たしかである。異宗教・異文化社会への布教の問題は,日本の問題でもある。

むろん,どのような社会も固定したものではなく,他社会との関係の中で多かれ少なかれ変化していく。ヨーロッパもインドも日本もそうだ。その変化は,21世紀の現在において,どうあるべきか? これは,ヒンドゥー教社会の側も,そこに入りつつあるキリスト教会の側も,よく考えるべきだろう。

そうしないと,このままでは本格的なコミュナル紛争となり,自爆攻撃が始まり,悪循環が止められなくなり,ネパールは長きにわたって塗炭の苦しみを舐めることになりかねない。

http://myrepublica.com/blogs/blog/2009/05/26/sunmaya-didi/



6/27/2009

コミュナリズムの予兆(6)

谷川昌幸(C)
このカトリック被昇天教会爆破に対する抗議行進が,5月31日,カトマンズなど,全国で実施された。(UCAN=Union of Catholic Asian News, June 2)
 
カトマンズ行進を呼びかけたのは,Isu Jung Karki牧師。あいにくの豪雨にもかかわらず,カトリック3000人(3教区),プロテスタント4000人(150教会)の計7000人が参加した。ちなみにキリスト教徒は150万人,そのうちカトリックは7500人(2009年)。 このカトマンズ抗議行進には,ヒンドゥー教徒やイスラム教徒も参加していた。
 
大惨事後の行進であったが,キリスト協会側の抗議は抑制されたものであった。また「世界ヒンドゥー協会・ネパール」のDamodar Gautam会長やイスラム教指導者のNazarul Hussain氏も,事件後直ちに,この爆破を非難し,キリスト教徒との連帯を表明していた。
 
しかし,それにもかかわらず,爆破事件に対する教会側の発言や抗議行進が「政治的」色彩を帯びることは,避けられない。いくつかの発言を見てみよう。
 
■S.ボガティ神父(被昇天教会)
「なぜ攻撃されたのか分からない。ネパールのカトリック教会は社会のためになることを常に行ってきた。われらは,どのような集団や社会の感情をも決して害するようなことはしてこなかった。」(UCAN, May 25)
 
■A.シャルマ司教(被昇天教会)
「ネパールのカトリック教会は,貧者や救いの必要な人々のために奉仕してきた。教会が攻撃される理由はなかった。礼拝の場は常に敬意を払われ,決して攻撃されてはならない。・・・・行進はキリスト教諸派や他宗教の人々の間に統一があることを示した。」(UCAN, June 25)
 
■レプチャ氏(カトリック教徒)
「[ヒンドゥー教過激派は,ネパールのカトリック教会の自制的な態度を利用してきた。]この行進は,カトリック教会は暴力攻撃を許さないこと,教会の諸権利を守るため立ち上がることを知らしめた。」(UCAN, June 25)
 
■J.カルキ牧師(プロテスタント)
この抗議行進は「行われるべきもの」であり,「世俗国家に反対する人々への当然の応答」である。(UCAN, June 25)
 
以上の発言は,抑制されたものである。しかし,宗教問題が難しいのは,そうした発言であっても,敵対者には,許し難い自己正当化と取られてしまうことだ。
 
「貧者や救いの必要な人々への奉仕」それ自体が,無神経な傲慢発言とされかねないし,「ネパールのカトリック教会の自制的な態度を利用」や「教会の諸権利を守るために立ち上がる」は,攻撃的本性の暴露とさえ映るだろう。
 
ましてや,「世俗国家に反対する人々への当然の応答」ともなれば,その政治性は明白である。キリスト教会が,布教拡大のため「世俗国家」擁護の政治運動を始めた,と取られてしまうのである。
 
あるいは,次のような報道もある。 「カトリック筋によると,NDAは元兵士,元警官,マオイスト・ゲリラ犠牲者から構成されていると考えられている。NDAは,共産主義者・キリスト教徒・イスラム教徒と戦うため自爆攻撃の訓練をしてきたという。」(BonsNewsLife, June 13)
 
この「カトリック筋」が誰かは分からないが,UCAN(June 1)がこの内容の記事を掲載しているので,カトリック側の発言には違いないだろう。
 
NDAが自爆攻撃を準備している,というのは本当かもしれない。しかし,キリスト教会側が,それを言い出すと,歯止めが利かなくなる。
 
ブッシュ政権は,自爆攻撃への反撃をアフガンにおける「十字軍の戦い」と呼び,イスラム圏の猛烈な反発を招いた。驚いて「不朽の自由作戦」と変更したが,もはや後の祭り,アフガン戦争はキリスト教侵攻に対するイスラムの聖戦という見方が広く深く浸透してしまった。アフガン戦争の泥沼化の根本的な原因の一つであろう。
 
繰り返すが,NDAや他の反キリスト教諸集団が,自爆攻撃を準備しているのは,本当かもしれない。もしそうなら,それにどう対処すべきなのか?
 
自爆攻撃が人権否定であり絶対に許せないことは言うまでもない。しかし,その一方で,人々を自爆攻撃にまで追い詰めたのは,一体何であったのかも,よく考えてみる必要がある。
 
キリスト教会は,ネパールの人々の気持ちを害するようなことはしていない――本当に,そういいきれるのか? イエスは「心の貧しくあること」を教えた。キリスト教会は,そのイエスの教えに忠実であったのか? 難しいことだが,ネパールの人々の側に立ってみて,いま一度,教会の布教のあり方を反省してみることも必要なのではないだろうか?

6/25/2009

コミュナリズムの予兆(5)

谷川昌幸(C)
キリスト教改宗者の激増(2009年度キリスト教徒数150万人ともいわれている)や世俗国家への転換を背景に,5月23日(土),キリスト教会爆破事件が発生した。詳細は分からないが,概要は次の通り。
 
爆破されたのは,パタンの「カトリック被昇天教会(Assumption Church)」。この教会は,1951年にSt Xaviers Schoolを設立し運営してきたイエズス会の流れをくむネパール初のカトリック教会。1992年に教会として公認され,建物(パタン・ドービガート)は1996年に完成した。ネパール最大のカトリック教会。
  
爆破された被昇天教会 / 教会はパタンの高級住宅街にある(グーグル地図)
  
5月23日午前,被昇天教会ではミサが開かれ,約300人が出席していた。9時15分頃,圧力鍋爆弾が爆発,インド国籍の3人の女性(15歳,20歳,35歳)が死亡し,13人が負傷した。
 
警察発表では,実行犯は,シータ・タパ・シュレスタ(27歳)。彼女は「ヒンドゥー教国家護持委員会」メンバーで,ヒンドゥー教国家復帰を訴えていた。警察は彼女が爆破を自白したと発表している。
 
爆破については,「ネパール防衛軍(NDA)」が犯行声明を出した。NDAは,昨年,ビラトナガルでモスクや教会を爆破し,カトマンズでもあちこちを爆破している。昨年のダーランでのジョン・プラカシ師の殺害もNDAとされている。NDAビラには次のような脅しさえある。
 
「キリスト教徒100万人は国から出て行け。もし出ないなら,すべてのキリスト教徒の家に100万発の爆弾を仕掛け,みな爆破してやる。」
 
以上は,あくまでも警察発表である。つじつまは合っているが,合いすぎていて,どこまでが事実か,疑念も残る。
 
しかし,シータが実行犯かどうかなど,まだわからない点も多いが,少なくともNDAのようなヒンドゥー教原理主義集団があらわれ,各地で活発に活動し始めたことは事実のようだ。
6/23/2009

コミュナリズムの予兆(4)

谷川昌幸(C)
宗教が外から入ってくる場合,在来宗教と純粋に信仰のレベルで競争することはまずない。神々は,内面的な信仰の世界よりもむしろ,外面的な世俗世界で覇権を争う。
 
山本忠義(C.Perry)氏によれば,マッラ王朝時代,カプチン会修道士たちは,カトマンズ盆地で無料医療を提供し,ジャガジュ・ジャヤ・マッラ王も受診し,謝礼として住居を提供した。バクタプルやラリトプルでも同様であった。
 
 「礼拝部屋が設けられ,医薬品が人々に近づく手段に用いられ,何千という重病の幼児や子供が洗礼を受けた。・・・・信仰者の多くはネワール人の土地なし農民で,神父たちは彼らに土地を買い与えた。」(p152)
 
ラナ家専制の時代には,ダージリンや印ネ国境付近で,ネパール布教活動が続けられた。
 
 「インド北東のアッサムからネパール極西部のダルチュラに至るキリスト教の学校にはネパール人の生徒が見られた。・・・・/また,多くのハンセン病患者が治療を求めて国境を越え,チャンダグ高原やカリンポンのハンセン病ミッション病院を訪れた。・・・・/その他の医療宣教活動も多くのネパール人の生活に触れた。巡回クリニックや,国境に点在する病院や施薬所などである。巡回クリニックは定期的に国境地域を巡回し,医学と福音伝道を結びつけた。」(p158)
 
ボジラジ・バッタ牧師もこう述べている。
 
「(開国後)宣教団が社会開発援助団体としてネパールに入り始めた。その際,各団体はメンバーの地元民布教活動を厳禁するという文書をネパール政府に提出させられた。彼らは,医者,技術者,社会活動家としてのみ,入国できた。もし違反すれば,外国人は即時国外退去,ネパール人は厳罰に処せられた。もしヒンドゥー教徒や仏教徒に布教し改宗させたら,ネパール人は7年以下の投獄であった。」Bhojraj Bhatta, "Impact of Missionaries and Native Missions in the Present Reality of the Church in Nepal," May 2009 ( http://nepalchurch.com/content/view/285/28/)
 
このように,キリスト教が途上国に入っていく場合,圧倒的に優位な富と科学的知識(近代知)が,どこでも神の行く道の露払いをしてきた。長崎でも,幕末維新に西洋からキリスト教諸派が殺到したが,その布教の武器もいうまでもなく富と科学的知識であった。
 
 たとえば,僻地の外海地区に入ったドロ神父は,医療,教育,開拓,建築,地場産業育成など,まるで彼自身万能の神であるかのような働きをし,地域の人々の信望を一身に集めた。ドロ神父は,いまでも「ドロ様」として敬愛されている。
 
ドロ神父は立派なキリスト者であり,誠心誠意,無私の愛をもって貧困にあえぐ外海の人々を支援した。私ももちろん彼を深く尊敬している。
 
しかし,そのことと,ドロ神父が布教に富と科学的知識の力を利用したということは別の事柄である。キリスト教の神は,仏や在地の神々と純粋な宗教のレベルで競ったのではなかった。もしドロ神父に財産も科学的知識もなければ,彼がいかに神の愛を説こうが,村の人々は彼の言葉に耳を傾けなかったであろう。
 
これは,富や科学的知識で布教の露払いをしてはいけない,ということではない。現世利益は,どの宗教でも多かれ少なかれ説いている。神や仏を信じることで,金持ちになったり病気が治ったりしたとしても,それは何ら非難すべきことではない。人々は幸福になり,神仏のご威光も増す。
 
ただ,ここで注意すべきは,富や科学的知識において圧倒的に優位な側が,それらで布教の露払いをしているにもかかわらず,そのことに無自覚で,まるで自分の神と在来の神々とが,純粋に信仰のレベルで自由競争している,と錯覚してしまうことだ。
 
「自由」はいつの時代でも,強者の利益だ。貧者・弱者の神と富者・強者の神が「自由に」競争すれば,富者・強者の神が勝つ。イエスや仏陀ご自身は,まったく逆のことを教え,実践したが,歴史を見ると,残念ながら,彼らの教え通りにはならなかった。この歴史の逆説を,私たちは十分に自覚していなければならない。
 
富者や強者は,内面的な「宗教の自由」や「信教の自由」を唱えつつ,自分の神のために富や科学的知識といった外面的な世俗の力を使う。いや,富や科学どころか,しばしば軍隊をさえも使って,神の教えを宣べ伝えてきた。神や仏陀ご自身が,そんな外的な力を布教に使ってはいけないと,繰り返し繰り返し諫めているにもかかわらず,だ。
 
これは難しい問題だ。ウソも方便であり,現世利益が悪いわけではない。ただ,信仰においては魂の救済こそが究極の価値だという原点につねに立ち戻り,厳しく自己批判すべきだ,ということであろう。平凡ではあるが。
 
ネパールに話を戻すと,キリスト教会は,1990年革命により規制をゆるめられ,この数年の民主化運動Ⅱをきっかけに急成長を始めた。マノーズ・シュレスタ氏によると,クリスチャンは2006年現在で70万人以上に達したという。
(M. シュレスタ「ネパールのキリスト教」http://www3.point.ne.jp/~doushin/NEPAL/CinNepal.html
 
この数字は,世俗国家宣言後は爆発的に増え,いまでは150万人(2008-9年度)ともいわれている。この信者急増がどこまで現世利益によるものかは正確には分からないが,ただそれが既存のヒンドゥー教社会にとってはたいへんな脅威であることは当然であり,事実,あちことで軋轢が生じ始めている。
 
ここで難しいのは,先述のように,キリスト教会の側が富と科学的知識の点で圧倒的に優位な立場にあるということである。
 
このことは,たとえば先に引用したボジラジ・バッタ牧師自身がはっきりと認めている。彼の「希望教会(Hope Church)」がどのような教会か,まったく知識はないが,彼のこの文章は実に恐るべき内部告発だ。ネパールで活動する諸外国の教会団体や宣教師とそれらに寄生するネパールの諸教会・聖職者の,底なしの腐敗と堕落が容赦なく糾弾されている。文章の最後は,こう結ばれている。最悪と特に厳しく糾弾されている「東洋(あるいはアジア)の宣教師たち」が日本人でないことを祈るばかりだ。
 
「何という皮肉か! 宣教団や宣教師(内外いずれであれ)は真理・誠実・謙虚の使徒と考えられている。しかしネパールでは,彼らは(少数の無名のものを除き)欺瞞・腐敗・傲慢の輩とされてきた! 誰も,宣教師(特に東洋の)や外国宣教団所属ネパール人など信用しはしない。彼らがネパールの地域教会に対し何をしてきたか,誰でも知っているからだ。」
 
 

HP