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2009/4/29 世俗主義とコミュナリズム(2)谷川昌幸(C)
4.セキュラリズムとコミュナリズム:関根説を手がかりに
(1)生活現場のヒンドゥー教
近代以前の伝統的インド社会において,宗教は截然と「宗教」として区別されることなく,他の諸活動と渾然一体をなし,生活の中で生きられていた。「聖俗一体の神聖王権下での宗教は人々の生活全体に埋め込まれたものとしてあったに違いない」(p33)。それはナンディのいう「信仰としての宗教」,つまり「政治と宗教ないし俗と聖といった二分法に立たずに人間生活全体を包括する『信仰としての宗教』」(p45)である。
植民地化,近代化,世俗化以前のインドは,このような「生活現場で生きられている宗教」,「生活現場のヒンドゥー教」の国であった。
(2)植民地支配の公的社会観
そのインドにイギリスが進出し,植民地支配を始めた。その際,問題となったのが「多様なインドの人々をどのように把握し支配構造に組み込んでいくか」(p28)であった。「結局,宗教,カースト,トライブ(部族)などを区分基準にインドの人々を分割する公的社会観が生み出された」(p28)。そして,この公的社会観の成立を契機にコミュナルな意識が覚醒ないし形成され,時と共に拡大・深化していくことになる。
「宗教の違いに基づくムスリムとヒンドゥーの分割,『高貴な野蛮人』幻想と反ヒンドゥーとの結合が生んだトライブのヒンドゥーからの分離,および4ヴァルナの理念的分類を基礎にした階層的カースト分割は,いずれも支配という超越的な立場からの分類によるアイデンティティの付与である。しかし,いったん分類されるとその内部は均質的な一義性が仮定され,さらにそれが現実に客体化して各集団の内在的視点のうちに『想像の共同体』をつくり出すことになっていく」(p32)。
(3)理性支配としての世俗主義
イギリスのこのインド社会認識およびそれに基づくインド社会再編は,西欧世俗主義(セキュラリズム)のインドへの適用であった。つまり,世俗主義が,結果として,コミュナリズムを鬼子として生み出すことになってしまったのである。
世俗主義には,二側面がある「①近代国家機構と宗教とを厳格に分離するという原則的側面と,②近代国家が複数の宗教に対して常に中立性を保持するという現実的側面とである」(p41)。
しかし,この世俗主義は,近代的理性の内部にあるものである。関根によれば,「17世紀に西欧において教会と国家とが分離していったとき,それは必ずしも反理性としての宗教と理性としての国家という対立区分ではなかった」(p29)。
理性は,「理性対反理性の全体を見定める理性」「理性的行為と反理性的行為の間の選択も理性の仕事」(p29)となる。世俗主義は,まさにこの「理性の仕事」である。そして,もし国家がそのような「理性的判断の体現者」(p29)であるなら,その国家こそが,政教分離を可能ならしめることになる。近代国家において,宗教は理性によって規定され,支配されているのである。
近代国家は,一方で,理性により世俗主義(政教分離)を選択しつつ,「理性化による進歩」のイデオロギーにより「脱宗教」を進め,民主化と経済発展を追求してきた。
しかし,関根によれば,この理性化(近代化)による無限の進歩が不可能であることが,いまや自覚され,時代は閉塞状況にある。経済成長の限界は明らかだし,民主主義も同様だ。
「個人の自由と平等を標榜する戦後デモクラシーは,その実現を未来へと遅延する仕掛けとしての進歩観によって担保されてきたのだが,それに疑いが生じたとき自ずから現実に存在する不平等や不自由が耐えられないものとして突出してくる。それはすなわち,それまで成長,進歩という右肩上がりの相対的落差を追いかけることを生き甲斐にアイデンティティを繋ぎ止めてきた現代の人々には,その進歩神話の喪失が生活実感として行き場のない不安,不満を募らせる」(30)。
その結果,世界各地でアイデンティティが問題となり,「宗教」や「民族」が復興し,対立紛争が頻発するようになった。
「事実として,デモクラシーの実現,脱宗教といった近代化の単純な見通しは今日大いに裏切られており,理性の時代の進展がかえって非理性を呼び出し,それが宗教や民族に仮託されて混沌を引き起こしていると解釈できる構図が展開している」(p30)。
これこそ,まさしく世俗主義の逆説である。
(4)世俗主義のインド適用
イギリスは,この理性支配としての世俗主義をインドに適用した。イギリスは,理性的(科学的)にインド社会を観察し,それをムスリム,ヒンドゥー,トライブに三分割し,ヒンドゥーについてはさらにカーストに細分し,すべての人々にそれぞれの帰属(アイデンティティ)を与えた。そして,その上で,政教分離の世俗主義を採り,各宗教,各社会集団に相対的自治を認めた。
「しかし,ここに大きな矛盾が抱え込まれた。つまり,宗教集団区分を社会単位にした上で政教分離の支配構造を構築したことに発する矛盾である。宗教集団に対して相対的自立性を公的に与えておいて,それを私的領域に封じ込めるという無理な形が生まれる。そこには必然的に,可能性としての,潜在性としてのコミュナリズムが抱え込まれてしまったのである。とりなす重石がなくなれば,当然その矛盾は吹き出す。」(p32-33)
これは鮮やかな分析である。イギリスは,インド植民地に「宗教を制度的に利用した世俗国家体制」(p33)を構築した。
「こうして,人々は宗教をめぐってダブルバインド状況に陥ることになった。というのは,宗教は公の場から退くべきとするセキュラリズムの基本命題(私事化された宗教の内容に不干渉な国家)と,宗教を集団区分の基準に用いて絶対視するという命題(宗教区分に干渉する国家)との間で人々は宙吊りにされるからである。」(p33)
このような状態で「植民地支配権力の重石」がなくなれば,コミュナルな宗教紛争,民族紛争が噴出するのは当然である。しかも,皮肉なことに,コミュナルな要求をする彼らのアイデンティティは,彼ら自身のものではなく,外から与えられたものである。
「宗教を利用すれば宗教集団区分に沿って,カーストを利用すればカースト集団区分に沿って抵抗運動も組織されやすい。抵抗運動のエネルギーは,反英が反ムスリムにぶれてしまうように,上からの集団区分を受け入れてしまって身近な敵を想定しそこに『偽りの投影』を行ってしまう。」(p35)
(5)世俗主義の二つの形
ところで,世俗主義には,関根によれば,次の二つの形がある。
(a)初期ネルー型(西欧型)世俗主義
政教分離。「宗教とは関係なく国民たるものは皆,非宗教的な統一された法制下で平等な義務と権利を有することが目標となるべきだという主張」。「つまり,宗教集団よりも国民を優先する一元化,統一化である」(p42-43)。国家一元主義。
(b)ガンディー型世俗主義
国家はどの宗教も等しく支持する。「どの宗教集団(宗教共同体)もその存在が肯定されその信条を主張する権利が認められるというふうに多元化,多様化の方向を認める。これは信教の自由を保障するものだが,宗教集団が国民という属性よりも優先されうるとの解釈を生む可能性を留保する」(p43)。宗教多元主義。
インド憲法には,この国家一元主義と宗教多元主義が共存している。そして,ここから理論的にも現実的にも難しい問題が生まれてくる。
(6)「真の世俗主義」
それがBJP(インド人民党)の「真の世俗主義」の問題である。
関根によれば,「セキュラリズムもコミュナリズムも認識論的には相対主義」であり,「宗教を対象化して眺められるような近代思考としての世俗化した社会認識を共有している」(p40)。その上で,「セキュラリズムは道徳的相対主義を保持しようとし,コミュナリズムは道徳的絶対主義の態度を採る」(p42)。
「BJPの言う『真のセキュラリズム』はその『セキュラリズム』という言葉でセキュラーな認識的相対主義を告白し,『真の』という表現でヒンドゥトゥヴァという理念が示す道徳的絶対主義を主張したものであると解せる。・・・・ヒンドゥー教という一つの宗教の価値審級を他の宗教に対してあげてしまうことで普遍化させ,相対主義を踏んだ後に無化してしまうのである。それによって,一級市民と二級市民とを階層化することも可能になる。」(p41)
世俗主義,特にガンディー型によれば,国家は宗教としてのヒンドゥーを積極的に認めなければならない。ところが,ヒンドゥー多数派によれば,インドとはヒンドゥースターンのことだから,インドはヒンドゥーでなければならないことになる。あるいは,インドは「ヒンドゥー教を超えてヒンドゥー教徒が依って立つべき,より広範な意義を持つ根本原理」(p34)たる「ヒンドゥトゥヴァ(ヒンドゥーの本質)」の国であらねばならない,ということになってしまう。
このように,世俗主義は,「真の世俗主義」という形をとった場合,イスラム教やキリスト教を排除するか,下位に位置づけるヒンドゥー・コミュナリズムを根拠づけることになってしまうのである。
(7)脱近代への超出
コミュナリズムは世俗主義では解決できないとすれば,われわれはどうすればよいのか? 関根は,それを「脱近代への超出」ととらえ,次のように述べている。
「セキュラリズムという理性的空間の抑圧の周辺・縁辺でコミュナリズムという激情が噴出しているが,それは外部性(理性の他者)との遭遇をセキュラーな理性の牢獄(内閉空間)の考え方のままに性急に回収しようとする所為によって起こっている事態であり,他者犠牲を強いる暴力を結果している。しかし同時に,この問題の噴出している縁辺の場所こそ,『理性の他者』問題を考えるにふさわしい近代を革新する可能性の場所である。すなわち,コミュナリズムが起こっているその場所そのものが,人を殺す宗教から人を生かす宗教への転換の場になる可能性を秘めている。宗教の名の下に他者犠牲に向かってしまう暴力が,信仰の核心にある自己犠牲へと転換するとき,それは人をして自発的な他者受容に赴かせる力となる。そういう真の信仰が立ち上がる場所は,理性がその外部と接するこの境界(縁辺)以外にありえない。」(p48)
5.ネパールへの教訓
関根のいう「脱近代への超出」あるいは「真の信仰が立ち上がる場所」が具体的にどのようなものか,それがいったいどのような「近代の超克」なのかは,あまりにも難解であり,まだよく分からない。したがって,この部分の評価は留保せざるをえないが,少なくとも世俗主義とコミュナリズムの関係に関する彼の分析は鋭く,これは国家世俗化に着手したネパールにとっても非常に参考になる。
(1)1990年革命以前のネパール
1990年民主革命以前のネパールは,ビシュヌ神化身たる国王が統治するヒンドゥー王国であった。ヒンドゥー教は国教であったが,それは近代的宗教というよりは,伝統的な「生活宗教」,つまり前述の「生活現場で生きられている宗教」に近いものであった。ネパールは,植民地支配により近代化される以前のインドに近いヒンドゥー教社会であったといってよい。
当時のパンチャヤト政府は,そのような伝統的ヒンドゥー教社会を維持するため,本格的な科学的人口動態調査を許さなかった。人々を認識対象として措定した上で,彼らを宗教別,カースト別,民族別に分類し,帰属(アイデンティティ)を明確化させることを忌避し,ネパール全体をいわば一つの「ヒマラヤのヒンドゥトゥヴァの国」として護持しようとしたのである。
(2)1990年革命とネパールへの近代化
ところが,このパンチャヤト王制は,1990年革命により打倒され,立憲君主制の1990年憲法体制が成立した。ヒンドゥー教はまだ国教として維持されていたが,国家モデルは自由民主主義となり,国連および先進諸国が「外から」そして「上から」ネパール政府を指導し,近代化,民主化,世俗化に取り組ませることになった。
(3)科学的人口調査
そこで早速問題になったのが,ネパール社会の「科学的」認識である。近代化,民主化のためには,ネパール社会の実態を正確につかまなければならない。そのため,文化人類学者,言語学者,宗教学者,社会学者らを総動員して,ネパール社会の「科学的」実態調査を行い,人々を「民族」「カースト」「言語」等の属性ごとに分類し,それぞれの集団の相互関係を確認し確定し,その成果を政府発行の『人口調査』(1991)等で公表していった。
ネパールには,1990年革命以前にももちろんカーストやジャーティ等はあり,差別もあったが,それらが「科学的」に詳細に調査され,階層秩序の中に明確に位置づけられ,国家により権威づけられ,人々に「科学的知識」として広く知られるようになったのは,90年革命以後である。
(4)集団アイデンティティの形成と強化
90年革命以後のこの社会実態調査の進展と共に,巷にはカースト,民族,言語等の社会集団に関する研究書や啓蒙書,パンフレット等があふれ,これらにより人々は自分の帰属を確認し,集団アイデンティティを強化していった。特に被抑圧諸集団は,集団の権利を主張し,90年憲法体制を攻撃し始めた。
(5)マオイストによる社会集団の利用
この動きをうまく利用したのがマオイストである。マオイストは,普遍的「階級」ではなく,90年以降の近代化,民主化が覚醒させた「民族」「カースト」「言語」等の社会集団の権利要求を代弁する形で勢力を拡大し,それに追随した他の諸政党をも巻き込み,ついに2006年4月,民主革命によりヒンドゥー教王制を打倒し,世俗共和制を樹立することになったのである。
(6)アイデンティティ政治の拡大
これ以後,社会集団のアイデンティティ政治は,いよいよ歯止めがかからなくなった。
国連=先進諸国は,ネパール民主化のため,「科学的」調査により,ますます多くの「民族」や「言語」を発見し,それらにマオイスト政府がお墨付きを与える。そして,それに基づき,おびただしい数の「民族地図」やら「言語地図」が発行され,人々の集団アイデンティティ意識を煽り立てる。
こうして集団アイデンティティに目覚めた人々は,集団の権利主張をますます強め,議会や役所や軍隊での集団別人員割当を要求し,また民族自治,集団自治を要求し始めた。
宗教についてみると,マオイスト政府は,世俗主義により,政教分離(西欧型=ネルー型)ではなく,ガンディー型の諸宗教支援政策を推進している。政府は,キリスト教を含む各宗教の祭日を国民休日にしたし,大統領はヒンドゥー教儀式に積極的に参加している。一方,政府のいくつかの部署では,仏教を支援するような政策を採っている。
(7)コミュナリズム紛争を招かないか?
しかし,こんなことをしていて,本当に大丈夫だろうか? インドと同じように,コミュナリズムを呼び起こし,泥沼のコミュナル紛争に陥ることになるのではないだろうか? 国連=先進諸国の重石(UNMIN等)がとれたあと,ネパールはどうなるのだろう? 最後にもう一度,関根の文章を引用しておこう。
「宗教を利用すれば宗教集団区分に沿って,カーストを利用すればカースト集団区分に沿って抵抗運動も組織されやすい。抵抗運動のエネルギーは,反英が反ムスリムにぶれてしまうように,上からの集団区分を受け入れてしまって身近な敵を想定しそこに『偽りの投影』を行ってしまう。」(p35)
2009/4/26 世俗主義とコミュナリズム(1)谷川昌幸(C) 1.世俗国家の宣言ネパールは,暫定憲法(2007)により世俗国家となり,2008年5月28日成立の制憲議会もこれを認めた。「暫定憲法第4条(1) ネパールは,独立,不可分,主権的,世俗的,包摂的な,完全民主主義の国家である。」 ネパールは「世俗国家」であり,これを前提に「宗教の権利」(第23条)も認められている。 しかし,インドと同様,ネパールにおいても,人々の生活と宗教は西洋諸国や日本よりもはるかに緊密かつ複雑であり,実際には,世俗国家の実現は非常に難しい。憲法で世俗国家を宣言しても,国家は宗教からとうてい逃げられず,「世俗性」とは何かがつねに問われざるをえない。 2.政教分離としての近代世俗主義 世俗国家という場合の「世俗」は,英語ではsecularであり,日本語としてはむしろ「非宗教的」と訳した方がよいかもしれない。西洋近代の世俗主義は,「反宗教」や「宗教否定」ではなく,国家と宗教を分離し,政治を非宗教的な形で行うべきだという考え方だからである。 近代世俗国家においては,宗教の政治支配が否定される一方,その逆の政治の宗教支配も否定される。政治(国家)と信仰(宗教)はいずれも重要な人間活動だが,一方が他方を支配するというのではなく,それぞれが別の領域であり,相互に独立している。政治は公的領域,宗教は私的領域であり,政治は私事としての宗教に介入せず,宗教も公事としての政治に介入しない。これが,西洋近代で成立した世俗主義ないし政教分離の考え方である。 ネパールについて見ると,「世俗的」はधर्मानिरपेक्ष,「世俗主義」はधर्मानिरपेक्षताである。つまり「世俗的」とは,ダルマ(宗教,教義,徳,善,義務,本分,本質)とは無関係(निरपेक्ष)ということである。 また,S.K.シュレスタの『法学事典』(Pairavi Prakashan)でも,世俗主義は「1.あらゆる形の宗教・信仰を拒否する政治哲学・社会哲学。2.公教育や他の政策は,宗教なしに行われるべきだとする考え方」と説明されている。 これを見る限り,「世俗的」は,ダルマの解釈は難しいが,とりあえずそれを留保するならば,少なくとも用語上あるいは法学事典の説明では,ネパールでも西洋や日本とほぼ同じ意味で使われていると言ってよいだろう。すなわち,「世俗的」は,字義的には「政教分離」を意味するのである。 3.政教分離は可能か? しかし,問題は,西洋近代のような世俗化=政教分離がネパールにおいて実行できるのか,あるいは実行できるとして,それが本当に望ましいことか,という点にある。 これまでネパールはヒンズー教国家であり,生活と宗教は渾然一体をなしていた。それをいかにして分離するのか? あるいは分離したら,どのような問題が生じるか? これは,よくよく考えてみるべき根本問題である。 この問題について興味深い分析をしているのが,関根康正『宗教紛争と差別の人類学』(世界思想社,2006)である。この本の対象は,インドの宗教紛争であるが,ここで述べられていることは,世俗化に着手したネパールにとって,非常に示唆的である。 分析は鋭く多面的であり,決して読みやすい本ではない。あまりにも難解で,よく分からないところもある。しかし,理解できた部分だけでも,著者の問題提起の重要性は,よく分かる。さすがインド学だ。ネパールについては,残念ながらこのようなレベルの本は,管見の限りでは,見あたらない。 以下では,「第1章 植民地主義の遺産―セキュラリズム(政教分離主義)とコミュナリズム(宗教対立主義)という難問(p27-48)」を手がかりに,ヒンズー教世界における世俗主義と宗教の問題を考えていくことにする。 (未完) 2009/4/23 プラチャンダ氏は内藏助か?谷川昌幸(C)
プラチャンダ氏の評判が芳しくない。贅沢三昧,身内びいき,優柔不断,外国漫遊等々,そこまでいわなくても,と気の毒になるくらい,いわれ放題だ。
プラチャンダ氏に革命家のコワモテ・イメージはない。いかついガードがついていても,どこかほ~んわか,柔らかムードで,好感が持てる。
しかし,プラチャンダ氏は,10年余の人民戦争を指導してきた人物だ。私も,他の多くの人々も,革命など無理だと思っていたのに,見事,共和制革命を達成した。これだけでも,プ氏は21世紀初の英雄であり,「プラチャンダ空港」「プラチャンダ大学」と改名し,旧王宮前に巨大プラチャンダ像(お得意の右手拳を上げた革命スタイル)を建立してもよいくらいだ。
その過去の偉大と現在の矮小は,まるで釣り合わない。ネコかぶりではないか? 大石内藏助の「昼行灯」,仇討ち前の「優柔不断」「女遊び」のたぐいではないか? いまは仮の姿,敵は資本主義本丸にあり。そんなことを想像したくなるほど,プラチャンダ氏は神秘的だ。
もしこれが単なる空想,買いかぶりであるのなら,人民戦争の英雄をたちまち凡庸な「放蕩」政治家にしてしまうネパール政治の魔力は,これまた恐るべきものだといえる。ヒマラヤの神秘といってよい。
プラチャンダ氏は本物か,それともネパール政治の魔力が勝るか? 興味は尽きない。
(補足)
破壊と創造と維持は,それぞれ別の能力を要請する。ネパールの神々も分業しているし,わが信長・秀吉・家康にもそれぞれの役割があった。西郷と大久保の違い何か? この点については,別の機会に改めて論じることにする。 2009/4/22 ネット配信で大学生逮捕 谷川昌幸(C)
音楽をネット配信した大学生が,20日,著作権法違反で逮捕された。おもしろ半分でやっていたのだろうが,逮捕となれば,経歴に傷がつき,就職にもひびく。
告訴した著作権協会も,捜査し逮捕した警察も,一罰百戒の見せしめであろう。といっても,違法コピペをやれば,誰でも告訴される可能性はあるわけだ。
無断コピペをやるなら,「知と芸術は万人のために」という高尚啓蒙哲学を掲げ,有力会社の売れ筋作品から真っ先にコピペし著作権を粉砕する確信犯となるか,さもなくば,素性のばれない超絶ネット技術を磨きコピペをネットに氾濫させ,著作権を有名無実化する高等愉快犯となるべきだろう。
ユーチューブやグーグルが捕まらないのに,この大学生の直接の逮捕容疑は,掲示板に3曲アップロードしていただけ。総数でも約3千5百曲。せいぜい,この程度だから捕まったのだ。300万曲くらいにしてしまえば,捕まらない。
(疑問)この大学生は自分の掲示板に3曲アップロードして逮捕された。もしアップロード先がユーチューブか同様のネット・サービスであっても,彼は逮捕されたのだろうか? あるいは,外国のサイトにアップロードした場合はどうなるのか? その辺の仕組みがよく分からない。 2009/4/19 ヒンズー教王国象徴としてのネパール国旗 谷川昌幸(C)
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国旗と国歌は国家の最も重要な情緒的社会統合手段であり,大きな政治変革のあとには新しい国旗・国歌がつくられるのが普通だ。逆に言えば,国旗・国歌は制定時の国家理念の表現である。
もしそうだとすると,ネパールが君主制から共和制への民主革命を達成しながら,国歌だけ変え,国旗をそのままにしているのは,不自然といえる。おそらく,国歌(歌詞)は「国王賛歌」であったから変えざるをえなかったが,国旗は図像であり,それほど明確な意味の限定がないから変えなくてもよかったということであろう。(意味の明確な国章は後述のように新国章に作り替えられた。)
しかし,本当に,ヒンズー教王国の国旗を世俗共和国の国旗として,そのまま使い続けることができるのであろうか? (ネパール国旗については文献がいくつかあるが,どこかに紛れ込んでしまい,ここでは参照できない。以下は,うろ覚えなので,もし間違いがあれば,あとで訂正します。)
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ネパール国旗は,公式には,1962年憲法により制定された。クーデターで独裁的権力を握ったマヘンドラ国王が,非政党制パンチャヤト民主主義(partyless democratic Panchayat System)の憲法をつくり,その第5条で「ヒンズー教王国」の国旗として現在のネパール国旗を制定したのだ。
しかし,この国旗の図像自体は新しいものではない。1962年憲法が定めているように,「ネパール国旗は伝統的に昔から継承されてきたもの」(第5条)である。「伝統」はそのときの支配者が創るものだから,1962年憲法のいう「伝統」は,もちろんビシュヌ神化身たる国王が自らつくった「伝統」である。つまり,ヒンズー教とシャハ王家と,そしてまだまだ有力だったラナ元将軍家の「伝統」である。それらの「伝統」を図像化して現在の国旗をつくったのだ。
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まずヒンズー教について。これは明白だ。国旗の三角形は,ヒマラヤをデザインしたものではない。三角形には昔から神秘性が認められていた。ピタゴラスはその神秘を解明しようとして「ピタゴラスの定理」を発見した。キリスト教は「父なる神・子イエス・聖霊」の三位一体を説く。そしてヒンズー教は,「ブラフマン・シバ・ビシュヌ」の三神世界を構築している。三角形は,ネパールではヒンズー教のシンボルなのだ。
だから,ネパールのヒンズー教寺院にはたいてい国旗と同じ二層三角形の旗(ときには三角形一つの旗)が立てられている。いつの頃からあったかはっきりしないが,マッラ王朝の頃にはすでにあったらしい。このヒンズー寺院の旗をマヘンドラ国王が国旗デザインとして採用したと考えるのが自然だ。
この二層三角旗の成立過程については,ラナ将軍家の有力2家のそれぞれの三角旗が19世紀に一つに合わせられ,二層三角旗となったともいわれている。ありそうな話だ。
(左・中)寺院の三角旗(寺院名失念)/(右)バクタプール旧王宮黄金門(1753)
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次に,国旗に描かれている図像についていうと,上部の月はシャハ王家,下部の太陽はラナ将軍家を象徴している。このことは,2008年改定の社会科教科書のいくつかにも,はっきり書かれている。ただし,いまは,これでは都合が悪いので,月と太陽はネパールの弥栄を意味していると読み替えて説明される場合が多い。
このように,ネパール国旗の意味解釈は必ずしも一つではないが,少なくとも,それが国旗として正式に制定されたのが1962年憲法においてであり,したがって本来の国家公認解釈が「ヒンズー教王国の象徴としての国旗」であったことは間違いない。
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新政府もそう見ている傍証として,国章をあげることができる。国旗と同時に1962年憲法で定められた国章には,王冠,ゴルクナート神足跡,国旗,ククリ刀,ヒマラヤ,月,太陽,牛,ゴルカ兵,ニジキジが描かれていた。
ところが,新国章を見ると,国旗,ヒマラヤ以外のものはすべて削除されている。ヒンズー教と,シャハ王家およびラナ将軍家の含意を消し去りたかったからであろう。
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ではなぜ,国章からは月(シャハ王家)と太陽(ラナ将軍家)を削り,ゴラクナート神足跡と牛(ヒンズー教)を削りながら,国旗は変えなかったのか? 国旗は抽象性が高く,解釈により新しい意味を盛り込めると考えたからなのか? それとも,ヒンズー教王国の「伝統」をひそかに残したかったからなのか? それはいまは分からない。 2009/4/18 オバマ核廃絶発言と長崎の平和運動谷川昌幸(C)
快晴の土曜午後,またまた平和公園「原爆資料館ホール」に行き,「長崎平和推進協会」25周年記念行事に参加した。 「平和」については,被爆地ナガサキは特異な位置にある。「反核」「平和」は市の政策となっており,学校で繰り返し教えられ,生徒・学生の「平和活動」も盛んだ。もしこれが他の土地であれば,「偏向教育」,生徒の「政治活動」と糾弾されるかもしれない。長崎の「平和」の濃さは,8年前,山形からボロ車を転がしこの地に入ったとたん,いたるところで感じ,驚いたものだ。
その長崎の「核廃絶」運動の中心の一つが,この「長崎平和推進協会」だ。わがゼミの学生もシンポジウムにパネラーとして参加し,堂々と「反核」「平和」を訴えた。実に,頼もしい。
この点を十二分に確認した上でいうのだが,このところ少々気になるのが,長崎におけるオバマ大統領評価である。 周知のように,オバマ大統領は大統領選で核廃絶を訴え,この5日には米EU会議のために訪れたプラハで演説し,広島・長崎に核兵器を使用した米国の核廃絶への道義的責任を認め,具体的な核廃絶への努力を明言した。長崎ではこの一連のオバマ発言が高く評価され,オバマ礼賛に近い発言や記事が巷にあふれている。
しかし,これは少し違うのではないか? オバマ大統領の核廃絶発言が長崎の平和運動の絶好の追い風になることはまちがいない。私たちは,これをテコに核廃絶運動を前進させることができるし,またそうすべきだ。その意味ではオバマ発言は歓迎すべきものだ。
しかし,他方では,オバマ発言の冷静な分析も必要だ。ブッシュ前大統領が理想主義者であったのに対し,オバマ大統領は現実主義者だ。決して,逆ではない。
オバマ大統領が核廃絶努力を選択したのは,核兵器が米国にとっては使えない兵器でありながら,「テロリスト」の核攻撃は十分にあり得る事態となってきたからである。「テロリスト」は使えるが,米は使えない。米核兵器に「テロリスト」抑止力はない。まったくない。だから,米は核廃絶を言い始めたのだ。 一方,通常兵器では米は圧倒的に優位にある。核兵器を規制し,通常兵器に比重を移すことが,米国の国益には叶うのである。それは,オバマ大統領がプラハで核廃絶をいいつつ,アフガン派兵の大幅増強を強硬に主張したことからも明白だ。
オバマ大統領は透徹した現実主義者であり,アメリカ国益を合理的に計算した上で核廃絶の発言をしている。長崎は,オバマ発言のこの意図を見据えつつ,それを核廃絶運動のために最大限利用していくべきだ。
核は悪魔の兵器であり,廃絶されるべきことは言うまでもないが,その一方,非情に徹し死者総数だけを見るなら,通常兵器によるものの方がはるかに多い。長崎の被爆死は約7万人だが,東京大空襲では約10万人,ドレスデン空襲では数万人。通常兵器による死者数を累計すれば,ヒロシマ・ナガサキの死者数よりもはるかに多い。また,第二次大戦以降のおびただしい死者たちもすべて通常兵器によるものだ。
こうした現実を見ずに,以前,批判した小浜温泉の「オバマ感謝祭」のようなノリでオバマ礼賛をしていると,足下をすくわれる。オバマ政権は通常兵器世界戦略に比重を移しつつあり,そこに自衛隊が引き込まれ,アフガンなどへ派遣させられることになりかねない。
オバマ核廃絶発言は歓迎すべきだが,しかし,それと同時に,オバマ現実主義への警戒も怠ってはならないだろう。
(参考)
2009/4/17 政府シンボルマーク(補足修正)谷川昌幸(C)
昨日の「暫定政府シンボル」について,畏敬するM氏から,それ(下図2)は制憲議会のシンボルマークではないか,とのご指摘をいただいた。「政府(government)」は,政治学業界では広義の立法・行政・司法を含む概念としても用いられるが,一般には「行政府」と理解される場合が多いので,たしかに前回の表現はやや舌足らずでした。このマークは制憲議会HPに掲載されています。
ネパールはいま,国家改造中で,シンボルマークも乱発気味。どれが,どの機関のものやら,わかりにくい。
わが東京都ですら,つい先日,下水道局のシンボルマーク(下図5)をめぐって,大騒ぎした。下が正規のマーク,上は「ちょっとダサイ」と感じた職員が手を加えて作成したマーク。お上の逆鱗に触れ,3400万円をかけ作り直した。担当の部長と課長は懲戒処分。
たかがシンボルマークというなかれ。これは集団のアイデンティティに関わることであり,権力の側は全力でそれを守ろうとする。日本政府は,日本のシンボルマーク「日の丸」を日本人全員に強制している。「日の丸」を認めない人,「日の丸」はダサイ,ハトでも飛ばすかなどと考える人は,懲戒処分や糾弾,はては命を落とすことさえ覚悟しなくてはならない。
(1)ネパール国章 (2) 制憲議会(?) (3)選管(?)
2009/4/16 暫定政府シンボル谷川昌幸(C)
正式にはどう呼ぶのか分からないが,現在の政府のシンボルマークがこれ。 デザイン的にはいまいちだが,メッセージは明確だ。皆で頑張って国を再建し支えよう,とういこと。しかし,国歌は新しいものに変えたのに,なぜ国旗は変えなかったのかなぁ?
国旗図案の解釈は難しいが,この図案はおそらくヒンドゥー教的なものだ。もしそうなら,世俗国家をウリにしているのだから,国旗も変えなければならないことになる。
もっとも,インド文化圏では「世俗的」の意味が,西洋世界とは異なるようだから,「ヒンドゥー教国家であっても世俗的」という深遠なインド政治哲学によれば,この国旗でもよいことになる。
おそらく,そういうことであろう。そんなことも分からんようでは,まだまだ修行が足らんわけだ。冷汗猛省。
2009/4/14 自衛隊の勇姿をユーチューブで谷川昌幸(C)
ネパール派遣自衛隊の勇姿を,ユーチューブで見ることができます。 何をやっても絵になるのがネパール。とくにBGMがよい。感動のあまり,ダウンロードして,DVDに保存してしまいました。
2009/4/13 アフガン・マオイスト,ネパール・マオイストを糾弾 谷川昌幸(C)
アフガニスタン共産党(マオイスト)が,ネパール共産党マオイスト(CPN-M)を厳しく糾弾している。非は,遺憾ながら全面的にネパール・マオイストの側にある。
Open Protest Letter from the Communist(Maoist) Party of Afghanistan to the Communist Party of Nepal(Maoist), Revolution in South Asia, April 8, 2009
アフガン・マオイストによれば,アフガンにはネパール武装治安要員が1500~2000人いる。当初は米警備会社の警備員として派遣され,たとえばShindand空港には700人も配備されている。ネパール・マオイスト政府は,これに反対するどころか,今度はPKO派遣増派を画策している。
マオイスト政府になった頃から,Shindand空港ネパール人治安要員は,米「特殊部隊」の直接指揮下に入り,カンダハルではカナダ軍と共同任務に就いている。
アフガン・マオイストは,第6回CCOMPSA(南アジア・マオイスト協議会)大会でアフガン派遣ネパール治安要員の問題を提起し,ネパール・マオイストも善処を約束した。しかし,この約束は裏切られた。なぜネパール・マオイストは,米帝国主義のアフガン侵略に加担するのか?
ネパール・マオイストは,制憲議会選挙の選挙公約でゴルカ兵を「恥ずべき伝統」と呼び,これを廃止しネパール国内の生産的活動に就かせる,と約束した。ところが,アフガンやイラクのネパール兵については,CCOMPSAでの約束を無視し,さらに増強しようとさえしている。
「いまネパール共産党マオイスト(CPN-M)の議長がネパールの首相だ。防衛大臣はCPN-Mの指導者の一人だ。財務大臣や他の重要大臣もCPN-Mだ。つまり,連立内閣はCPN-Mの指導下にある。それなのに,この政府統治下の市民がアフガンやイラクの占領軍の重要部分を担っている。ネパールで10年に及ぶ人民戦争を指導してきたその党が,いまでは恥知らずにも占領軍と手を結び,彼らの計画の実現に協力しているのだ。」
ネパール・マオイストは政権を握っており,アフガンやイラクへのネパール武装治安要員派遣を止めようと思えば,すぐにでも止められる。では,なぜそうしないのか?
「もし停止しないのであれば,追従者・ネパール武装治安要員は,アフガンで帝国主義侵略者の利益のために民衆の血を流すばかりか,いずれアフガン・マオイストの血や,わが党と関わりのある人民の血を流すことになるであろう。」
まさに,血を吐くような厳しい糾弾ではないか。ネパール・マオイストは,アフガンの友党のこの批判に,どう答えるのか?
答えられるはずがない。このブログでもすでに批判したように,ネパール・マオイストは自分たちが「恥ずべき伝統」と非難してきたゴルカ兵募集をすでに容認している。また,ネパール人青年男女を「人的資源」と見なし,日本や東南アジア,湾岸諸国に積極的に輸出し始めている。
ネパール・マオイストは,人民弾圧のための傭兵として,また安価な使い捨て労働力として,自国人民を外国に売り渡しているのだ。
国王や封建的支配者が人民を売るのなら,まだ分からないではない。ところが,いまはそうではない。人民の友マオイストが,人民を外国に売りつけている。アフガン・マオイストの非難するとおりだ。
このようなアフガン・マオイストの非難に対しては,早速,反論が出されている。アフガン・マオイストなんて泡沫政党だ,ネパール・マオイストがせっかく政権を取ったのに,現実を無視して攻撃するのは,利敵行為だ,等々。たしかに,これらは政権維持のための戦術であり,長期戦略が革命達成であることは変わらない,という見方もある。 しかし,そうした言い訳は,いまネパール傭兵に殺されるかもしれない人々や,ネパール人出稼ぎ労働者に職を奪われるかもしれない現地労働者には通用しない。
ゴルカ兵募集,国連PKOへのネパール兵派遣,出稼ぎ労働者の送り出しは,いずれもマオイスト・イデオロギーそのものに反している。直ちに止めるべきだろう。
(参考)
2009/4/12 A.ロイ「プラチャンダ:知られざる革命家」(2008) 谷川昌幸(C)
ネパール首相にしてマオイスト党首のプラチャンダ氏の伝記。プラチャンダ氏は,ネパール関係者であれば誰でも知っている超有名人だが,一般には,まだまだ「知られざる」革命家といってよいだろう。この本は,そうした一般の読者向けの伝記である。
著者のAnirban Royはインド人ジャーナリスト。アッサム(インド)で生まれ,アッサム農業大学で獣医学・畜産学を学んだ後,ジャーナリズムに転身。オックスフォード大学マートン・カレッジ21世紀トラスト・フェロー。2000年に「ヒンドゥースタンタイムズ」記者となり,2006年9月からカトマンズ特派員。
ロイ記者は,ネパール専門家ではない。2001~2006年に5回訪ネしているが,単なる旅行者としてにすぎず,ネパール政治については特に関心を示さなかった。ところが,2006年4月,ヒンドゥースタンタイムズ編集長から「人民運動(4月革命)」取材を命じられ,9月にはカトマンズに転勤,これを機にネパール政治,特に革命の立役者プラチャンダに強い関心を持つようになった。
プラチャンダは,ちょうどこの頃,政治の表舞台に現れ,一躍時の人となったが,地下活動を続けてきたため,彼について詳しいことはインドではもちろんのことネパールでもほとんど知られていなかった。 そこでロイは,プラチャンダの伝記を書くことを思い立ち,取材を進め,2008年9月本書を書き上げ,カトマンズのマンダラ・ブックポイントから出版したのである。
この本は,プラチャンダの誕生(1954.12.11)から共和国初代首相選出(2008.8.15)までを扱っており,次のような特徴を持っている。
(1)著者はジャーナリストであり,ジャーナリストとしてプラチャンダを取材し記述している。
(2)しかし,それにもかかわらず,プラチャンダは革命の英雄であり,本書も一種の「成功物語」となっている。伝記としての面白さ,読者サービスを考えると,これはある程度やむを得ないことである。
(3)著者のロイはインド人であり,しかもネパール政治の専門家ではない。そのため記述に重厚さが欠ける恨みがあるが,その反面,ネパール政治の複雑な枝葉を大胆に切り払い,人民戦争の大筋を追っているので,一般の読者にも読みやすい伝記となっている。
(4)文章もまた,高校英語副読本として使いたくなるほど,簡潔明瞭である。
以上のように,本書は,ネパール専門家にはやや物足りないところがあるかもしれないが,プラチャンダ首相(マオイスト党首)の伝記として,またネパール人民戦争の歴史としても,面白く読むことのできる好著といってよいだろう。
Anirban Roy, Prachanda: The Unknown Revolutionary, Mandala Book Point, 2008 2009/4/11 雨宮処凛の聖性谷川昌幸(C)
晴天の土曜午後,平和の聖地「平和公園」の平和会館で開催された雨宮処凛の講演会「格差×貧困×戦争:「生きづらさ」をフッとばせ!」に行ってきた。 処凛さんのことは何も知らなかった。本も1冊も読んでいない。ただ,チラシに書かれている経歴に興味を引かれ,出掛けていったわけだ。
処凛さんは,幼少期からイジメに苦しめられ,21歳で右翼団体に入会,愛国パンクバンドで活動し,自伝『生き地獄天国』を出版,作家となり,北朝鮮,イラク等を取材する一方,使い捨てにされる底辺の人々に寄り添い,共に行動し,闘っている。
1975年生まれでまだお若いが,この経歴からもわかるように肝が据わっている。登壇するや否や,満場のお上品な紳士淑女を見下ろし,ペットボトルの水をラッパ飲み。これだけで,処凛さんが大好きになってしまった。
処凛さんは,おそらくギリギリの生を生き,そして見てこられたのだろう。いわば「剥き出しの生」。それを,お上品なあなた方に分かられてたまるか。そんなドスの利いた迫力を感じた。
人権活動家や平和運動家の多くは鼻持ちならない偽善者だ。彼らにとって,「人権」も「平和」も売名と金儲けの種にすぎない。その彼らの前に,処凛さんは「剥き出しの生」を突きつける。この生の側にいる限り彼女は聖女であり,その前では誰しも自らの偽善を恥じざるをえないだろう。
読みもしないでいうのは無責任の極みだが,彼女自らが生きた「剥き出しの生」は「地獄」であると同時に「天国」でもあったのだろう。機会があったら,読んでみたいと思っている。(予備知識ゼロなので,全くの見当違いかもしれません。悪しからず。)
2009/4/10 天皇の憲法遵守発言の「政治的」意味 谷川昌幸(C)
朝日新聞(4/10)が,天皇結婚50年特集で天皇の記者会見の様子を詳細に伝えている。その中で,天皇は明治・大正・昭和(敗戦以前)の歴代天皇を否定し,戦後天皇を正当化し擁護した。
天皇:「なお大日本帝国憲法下の天皇のあり方と,日本国憲法下の天皇のあり方を比べれば,日本国憲法下の天皇のあり方の方が,天皇の長い歴史で見た揚合,伝統的な天皇のあり方に沿うものと思います。」
天皇も人間であり,言葉を発し,それは多かれ少なかれ「政治的」意味を持つ。そもそも「国政に関する権能を有しない」天皇にそうした「政治的」発言が許されるかどうか微妙なところだが,憲法は天皇に「憲法を尊重し擁護する義務」(第99条)を課しているから,天皇が大日本帝国憲法を批判し現行憲法を擁護するのは合憲であり義務であるともいえる。
おそらくそうした考えからであろうが,現天皇は憲法遵守を事あるごとに明確かつ大胆に宣言している。現天皇の憲法遵守発言は条件反射的であり,身体化されているとさえいってよいだろう。政府の憲法軽視・憲法無視とは対照的だ。
あるいはまた,天皇は日本国憲法遵守以外に天皇家の安泰はない,と確信しているようにも思える。アジアの有力王家の一つであり天皇家とも親密だったネパール・シャハ王家の国王は,象徴に甘んじることができず,政治的権力を行使したがため,議会の多数決により王制そのものまで廃止され,いまでは普通の市民の一人となってしまった。そしてタイでもまた,国王が,象徴になりきれないがため,深刻な危機に陥りかねないような状況になっている。天皇は,おそらくこうした王制の行方を見ながら,憲法遵守発言を繰り返しているのだろう。
しかしながら,こうした天皇の憲法遵守発言が「政治的」と感じられ始めたのは,やはり異常といってよい。もし世論や政治家たちの意見が圧倒的に憲法遵守であれば,天皇の憲法遵守発言も至極当然のことであり,「政治的」と感じられるはずがない。それがそうでないのは,世間で憲法攻撃が強まり,憲法が動揺し始めたからであろう。
この状況下で,護憲派は天皇の護憲(憲法遵守)発言にどう対応すべきか? それを利用しようと思えばいくらでもできるし,また相当大きな効果を持つこともまず間違いない。
しかし,これは禁じ手である。天皇の憲法遵守発言をいったん政治的に利用したら,天皇は政治化され,護憲派は底なしの泥沼に引き込まれる。いくら苦しくても,人民主権の日本国憲法の下では,人民は人民自身で憲法擁護の努力をすべきだろう。
では,ひるがえって,天皇は憲法遵守発言をすべきか否か? 天皇が「象徴」に徹すべきなら,昭和天皇のような意味不明の発言を繰り返すか,無言を通すしかない。が,天皇も人間であり,そうも行かない。そこが難しいところである。 2009/4/9 ネパールの文化財破壊2009/4/7 Dev Raj Dahal, Trade Union Unity in the New Context谷川昌幸(C)
FES所長のD.R.ダハール氏が新自由主義市場経済主義を批判し,労働者の労働組合への結集と,労組の大同団結,派閥政治からの独立を訴えている。
Dev Raj Dahal, "Trade Union Unity in the New Context," GEFONT, 2009
議論はその通りであり,実行が望まれるが,その問題は別として,興味深いのは論文に出てくるいくつかの数字だ。原典を見るのが大変なので,孫引きで紹介する。
・労働形態: 非熟練・非正規雇用と農業が90%
・日給: 1ドル以下が83%
・法定最低日給: 約240円。非組織労働者はこれ以下。
・法定最低月給: 非熟練労働者=約5750円,半熟練労働者=約5810円,熟練労働者=約5950円,高度熟練労働者=約6190円
・失業率:42%
・労働人口増加数: 年30万人以上
・海外労働求職者数: 204,775人(2008)
・海外労働者死者数: 500人以上(2008)
・海外からの送金: 15億ドル
・土地所有: 5%の大地主が全体の27%の土地所有。下位44%の農民は14%の土地を保有。
・少女売買: 年7000人以上がインド,湾岸諸国へ売られている。
このような数字を示されると,ネパールの農民・労働者の生活の厳しさが改めて思い知らされる。年30万人以上増加する労働人口を,ネパール政府は,どう養っていけばよいのであろうか?
2009/4/5 北朝鮮「飛翔体」と防衛省カタカナ英語の危うさ谷川昌幸(C)
1.ロケット発射誤報
北朝鮮ロケット発射について,防衛省は2回も誤報を流すという大失態を演じた。内外の信用失墜ばかりか,偶発戦争の危険性さえある。げに,恐ろしい。どうして,こんな誤報が発生したのか?
2.カタカナ英語の危うさ
防衛省は「秘密」組織なので,今回の誤報の真の原因は,おそらく発表しないだろう。隠蔽は軍の本質であり,情報公開を求めるのは,木によりて魚を求めるようなものだ。だから以下も推測だが,蓋然性は高いと思う。
今回の発射関係報道を見ていると,自衛隊の情報収集・伝達が予想以上にカタカナ英語(英語もどき)に依存していることが,よくわかった。こんなカタカナ英語では,緊急事態に対応できないし,誤解・誤伝達が発生するのも避けられない。緊急時には母語が絶対に必要だ。
そもそも自衛隊は国を守ると公言しながら,実際には自ら英語帝国主義に降伏し,その下僕に成り下がっている。国を守るとは,その魂たる文化を守ることであり,文化の核心は言語にある。母語を放棄し,(可能的)敵性言語たる英語に屈服して恬として恥じない自衛隊に,国民の生命・身体が守れるとは思えない。
このカタカナ英語原因説のもう一つの傍証は,誤探知・誤伝達発生後の政府の対応。それまで「ミサイル」発射とはしゃぎ回っていたのに,誤探知・誤伝達発覚後は,「飛翔体」発射と言い換えた。「飛翔体」という表現は,公文書では以前から使用されていたようだが,政府発表やマスコミ報道はもっぱら「ミサイル」だった。
「(軍事的)ミサイル」とも「(平和的)衛星」ともいいたくなければ,価値中立的な「ロケット」と表現すればよいのに,カタカナ英語によほど懲りたのか,膾を吹き,わざわざ「飛翔体」などという非日常的な固い表現を多用し始めた。カタカナ英語のあまりの恥ずかしさに,照れ隠しで,国粋主義に逆噴射したのだろう。誤探知・誤伝達の原因は,やはりカタカナ英語ではないか?
3.ヒステリーはリアリズムではない
それと,今回の「ミサイル」ないし「飛翔体」発射騒動で,いかがなものかと考えさせられたのは,マスコミのヒステリックなまでの一方的報道だ。
北朝鮮の体制は非民主的だし,日本人拉致も許し難いが,かりにそれらを括弧に入れ,「飛翔体」発射問題だけを考えてみると,米日とも「飛翔体」は多数打ち上げている。「ミサイル」だとしても,何百倍,何千倍ものミサイルが北朝鮮には向けられている。それなのに,なぜ北朝鮮「飛翔体」がこれほどまでに一方的にヒステリックに非難攻撃されなければならないのか?
たしかに北朝鮮はもっとも理解しがたい「他者」である。だから一方的非難報道になりがちなのはわからないではないが,しかし識者とされる人々までが無反省にそれに流されていては,対応を誤る恐れがある。
理解しがたい「他者」なればこそ,最大限その立場に立ってみる努力が必要だ。立場の移動,複眼的思考だ。その努力をした上で,過剰でも過小でもない――少なくともアメリカ程度には――合理的な対応をとる。そうした心構えが必要なのではないだろうか。
(参考)ニューヨークタイムズの批判精神
ニューヨークタイムズ(4/5)は,自分ではきちんと「ロケット発射」と見出しをつけて報道する一方,Daily Yomiuri紙面の写真を皮肉たっぷりに掲載している。 そこには,ヒステリックな巨大活字で「ミサイル発射」と印刷されている。さすが,うまい紙面作りだ。
2009/4/4 車の運転と国家統治 谷川昌幸(C)
統治governmentは,「船を操る」が語源。操船,あるいは現代であれば車の運転を見ると,その国の政治のあり方がよくわかる。
イギリスが民主主義の国とされるのは,タイタニック号事件(史実とすれば)に見られるように,船長以下乗組員が職責に殉じ,英国男性乗客が「紳士」として振る舞ったように,人々が目先の利益よりも規範や誇りを重視し行動する態度を身につけているからだ。民主主義は紳士の政治である。
ネパールの政治は,この対極にある。政治はそれぞれの文化ごとに様々であってよいが,もしかりに西洋民主主義をモデルとするなら,ネパールの政治家には「紳士たれ」といわざるをえない。そして,紳士となるには,客観的規範(ルール)をたとえ自分に不利であっても守り抜くという「やせ我慢」の美学の体得が不可欠である。
この美学がもっとも赤裸々に現れるのが,現代では道路交通である。深夜,車一台通らなくても,赤信号で止まる。愚劣かつ高尚だ。紙一重の差。わかる人にはわかる。それが紳士だ。ネパールの車運転はこの対極にある。
3月19日,ゴルカに行く途中,大渋滞に巻き込まれた。カトマンズ,ポカラ,チトワンの三方面からの幹線の集まる三叉路,ムグリンのはるか手前で車が止まり,全く動かない。トラック運転手は車台の下に潜り込み寝ている(日陰で涼しい)。露天が店開きし,飲み物,お菓子,弁当を売りに来る。 はてはサドゥ(ヒンドゥー教行者)たちが現れ,渋滞解消のため(?),有難いお祈りを唱え,祝福を受けよと呼びかける。まさにネパール的(インド的)混沌。ゴルカよりも面白そうだが,ゴルカに行くという目的合理性には反する。私も近代人だから,イライラが募り,この前近代的・非合理的渋滞を呪い始めた。
大渋滞。車台下で昼寝。路上販売始まる。
もしこれがバンダ(ゼネスト)かチャッカジャム(道路封鎖)だとすると,マオイストかマデシか,あるいは身内を轢き殺された一族かが,自分たちの要求を通すためやっているに違いない。はなはだ不合理で,紳士的でなく,したがって民主的ではない。ケシカラン! もうあきらめ引き返そうかと思い始めた頃,これはどうやら自然渋滞らしいということがわかった。
そこで周囲を見回してみると,こんなことをやっていては渋滞は当たり前だ,と思われる不可解な交通慣習がいたるところに見られる。 まったくもって不可解なのが,自己中(自己中心)の横着駐停車だ。この道路はインド・タライとカトマンズを結ぶ幹線で,大型トラックが多数往来する。それらのトラックが,道幅の狭いところに平気で駐車している。たとえその20~30m先に広い空き地があっても,そこまでいって駐車することは,しない。カトマンズからムグリンまで,ずぅ~と観察してきたが,そんな自己中横着駐車が無数にあった。紳士たるもの,ルールに従うこと以上に,他人に迷惑をかけないことを心がける。ネパールの運転者はこの逆,他人のことなどまったく考えていない。おそらく,それが迷惑をかけるとすら意識していないのであろう。
近代的愚劣の新名所マナカマナの茶店で,ハイカラ軽薄「即席ラーメン」を恭しく賞味しながら見ていると,この世のものとも思えない超自己中ドライバーに,あきれるのを通り越し,いたく感動させられた。何と,道の両側に車を止め,茶店に入り,茶を飲んでいる。当然,通行困難になり,渋滞が始まり,ブーブー,プープーとやかましくなるが,われ関せず,まったく平気だ。恐れ入りました。
両側駐車名所マナカマナ。即席ラーメン賞味のレストランより。
しかし,こうした自己中は悪いことばかりではない。ネパールでは,少々他人に迷惑をかけても,怒られない。プープー,ブーブーとけたたましいが,日本のように血相を変えて文句を言い,あげくのはて殴り合いになったり,逆上して殺したりするようなことは,まずない。迷惑なれしていて,迷惑を迷惑とも感じていない。だからこそ,バンダが日常化しても,停電16時間になっても,人々はまぁ仕方ないか,と平静でいられるのだ。日本だったら,天下の一大事,非難の雨あらし,首相の首が飛んでしまう。
19日のムグリン渋滞も,大型トラックが駐車し,そこにばかでかい超豪華ツーリストバスが来て動けなくなたことから発生したものだった。 まったく動かない。そうなると,これまた不可解きわまりないのだが,ネパール人(インド人)ドライバーは,待つことができない。二車線なのに,反対車線に出て我先にと先に突き進む。同じことが,渋滞の向こう側でも,当然,発生している。つまり,渋滞の起点を挟んで,反対向きの車が二車線をびっしり埋め,角突き合わせているわけだ。これでは,もうどうにもならない。事態は悪化するばかりで,道路そばのサドゥご一行の祈りも,ますます熱を帯びてきた。
渋滞解消祈願(?)のサドゥご一行(左)。バス前がわれらの乗用車。
ここでスゴイのは,さすがヒンドゥーの神々,行者の祈りが通じたのか,役人か顔役のような人物が警官をつれ,現れた。そして,権威を振りかざし,テキトーに車を整理し始めた。すると,あ~ら不思議,角突き合わせ二進も三進もいかなかった車が少しずつ動き始め,やっとムグリンを通過できた。
考察。ネパールのドライバーは,ルールがあるところではルールに従いルールのないところでは良識により他者に配慮する英国紳士の対極にある。このネパール・ドライバーの行動様式は,交通量が少ないときは有効であろうが,交通量が増えると対応できなくなる。したがって,もし車社会以前に戻るのがいやなら,ネパール・ドライバーも交通ルールと良識に従う紳士とならざるをえないのである。
同じことが,国家の操縦者たる政治家についてもいえる。社会が複雑化・流動化してくると,もはや人を見て統治するその場しのぎの「人治」は無理だ。ルールによる「法治」,良識による民主主義に移行せざるをえない。ネパールは紳士とならざるをえない。
渋滞犯の超豪華巨大観光バス(中央)。近代悪救済を呼びかけるサドゥ(右)。
【補足】
これは単なる精神論ではない。1970年頃までの大阪では,整列乗車,整列駐車ができなかった。電車やバスがくると,皆われ先にと乗車口に殺到し,押し合いへし合いの大混乱。運転でも,割り込みや二重,三重駐車は日常茶飯事だった。 それが,「紳士たれ」キャンペーンにより,いまではお行儀よく整列乗車,合法駐車ができるようになった。何かを失ったのではあろうが,それはいまは問わない。
とにかく,教育は偉大であり,一世代で人々の行動様式は革命的に改造できることが,大阪で実証された。トラですら,その気になれば,飼い慣らすことができるのだ。 2009/4/3 選管からまた陽は昇るか?2009/4/2 パサン「歴史の赤い歩み」
谷川昌幸(C) 人民解放軍(PLA)総監(Chief)のパサンが,戦記「歴史の赤い歩み」を出版した。人民戦争の作戦の多くを指揮した人物の著作であり,戦記として興味深い。 Pasan (Nanda kishop Pun)は,1965年10月23日,ロルパのラングシ村で生まれた。ラングシ村学生委員会委員長,リバン左派学生会委員長(1982),ブトワル全国学生大会参加,共産主義活動を理由に退学処分,ダバンでSLC取得(1983),ラングシ村学校教員となり教員組合(左派)で活動。ダン・キャンパス学生委員会委員長(1989-91頃),卒業後ネパール共産党マシャル(CPN-Mashal)参加。CPN統一センター参加,地下活動へ。青年共産主義者同盟(YCL)委員長。PLA部隊長を経て,現在はPLA総監(Chief)。パサンは,優れた指揮官であるばかりか,武器製造の知識も豊富。政治局メンバーであり,PLA担当。 このパサンの著「歴史の赤い歩み」は,読み物としては面白いとは言えないが,戦記としては興味深い。特に,戦闘についてのマオイスト発表と政府側発表との食い違いについては,考えさせられた。主な点を表にすると以下のようになる。表の上段=パサン(マオイスト側)の主張,中段=政府側発表,下段=BBC等の報道(本書記述のまま)。
以上は,あくまでもパサン(マオイスト側)の言い分であり,どこまで真実かは分からない。常識的には,いずれの側も「大本営発表」をやっていると見るべきだろう。 それを差し引いても,政府側は誇大報道といえる。ゲリラ戦だから仕方ない面はあるが,本当にこの程度の情報収集能力であったとすれば,鎮圧は無理だ。 また,それ以上に,警察(コングレス等)と軍(国王)との反目は,政府にとっては致命的であった。もし両者が当初から協力しておれば,マオイストの軍事的勝利はなかったといってよい。事実,2001年11月以降の軍攻撃以降,マオイスト側の損失は激増した。軍が本気になれば,PLAに勝ち目はない。 いずれにせよ,戦争は人間を数に還元し,より多くを殺し破壊することを目的とする。善悪の逆転が戦争だ。道徳の観点からは,いかなる戦争も絶対に正当化できない。が,政治は暴力(悪)を手段として幸福(善)を実現する営為であり,ギリギリのところでは戦争を否定しきれない。パレスチナの人々に実力で抵抗するなという勇気は私にはない。それが政治の難しいところであり,人民戦争の評価の難しいところでもある。 2009/4/1 早春の丹後谷川昌幸(c)
春休みの一日,故郷の丹後で過ごした。長崎では桜が散り急いでいたが,ここ丹後では冬枯れの山に純白のコブシがチラホラ咲き始めたところだ。 この故郷の寒村に帰るたびに,いつも不思議に思う。今の二倍以上の人口であったこの村が,山間の狭い土地で,貧しいながらも1960年頃まではほぼ自給自足できていたのは,なぜか?
たしかに生活は厳しく,平地はおろか山もことごとく利用され,私自身,田畑や山の仕事を手伝った。しかし,それでもちゃんと食えていた。 しかも,大人にも子供にも余暇は今の何倍もあった。とくに真夏や冬は暇で暇で,みな遊びを創意工夫し,時間つぶしをしていた。だから,私の村にも隣の村々にもそれぞれ多様な文化があった。
いま,それらはことごとく失われた。懐古趣味も一部あろうが,決してそれだけではない。私自身を含め,つい数十年前までは,村はほぼ自給自足の生活をしていた。どうしてその様なことができたのか? その様な生活の代わりに,私たちはいったい何を得たのか? 近代の偏見をいったん棚上げし,いま一度,考えてみるべきだろう。
丹後の自宅。住宅兼農作業場。ここで牛を飼い,養蚕,脱穀等も行っていた。 自宅前より大江山を望む。 |
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