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2008/5/31 批判は許さない,プラチャンダ議長谷川昌幸(C) 人民独裁とは,このようなことだ。 私の英語力では「Else」のニュアンスがよくわからないが,もし記事が事実とすれば,これがpeople's powerの名による高圧的脅しであることは間違いない。恐ろしい。 頑張れ,カンチプル! Prachanda warns Kantipur Publications Kantipur Report KATHMANDU, May 31 - Maoist Chairman Prachanda has warned Kantipur Publications of serious consequences if it continued to criticize his party. “Now we will no longer tolerate criticism as we have already been elected by the people,” the Maoist chief said while addressing a mass meet organized by his party at the Open Air Theater on Friday. “You (journalists from Kantipur Publications) did well to continuously criticize the Maoists before the [10 April CA] elections. Else, the polls would not have taken place at all.” Prachanda further said, “But we will no longer tolerate such things because we have become the largest party”. 最新共和国誕生の祝い方谷川昌幸(C) 外国との交際は難しい。革命ともなると,昨日の国王・皇太子陛下が今日の国権簒奪者,昨日のテロリストが今日の大統領閣下となる。つい昨日のこと,ちょっと振り返ってみよう。 (参照) 2008/5/30 王制遺産の浪費谷川昌幸(C) 5月28日深夜,制憲議会初会議において共和制宣言が賛成560,反対4で可決され,「ネパール連邦共和国」が成立した。わずか4票とはいえ,反対票があり,満場一致でなかったのが,せめてもの救いだ。(内閣指名26議員未選出はむろん憲法違反。) 1.共和制万歳記事 2.実践と認識 その点,プラチャンダ議長は名前通り「勇敢」で,信念ある政治家だ。「決断」し,可能性に賭け,新しい世界を創っていく。 しかし,認識は別だ。「決断」してはならない。少しでも疑問の余地があれば,いや全くないと思われても,疑ってみるのが認識の立場だ。 ジャーナリズムは本来認識者たるべきだ。権力者,多数派からつねに煙たがられ,嫌われてこそ,ジャーナリストだ。 3.王制遺産の浪費 最大の責任者は,ギャネンドラ国王,パラス皇太子。現代王制のイロハも心得ず,わずか6年余で遺産を食いつぶしてしまった(ギャ父子迎合内外名士も同罪)。 次の責任者は,制度と人を区別できなかった政治家諸氏。ギャ父子がダメだとわかったら,さっさと退位させ,適任者に王位継承させるべきだった。国王など,幼児でも鰯の頭でもよい。そうしておれば,激変は回避され,「大統領」などという国王代替物をつくらなくてもよかったのだ。 第三の責任者は,知識人,ジャーナリスト。共和制論が出たら,それを真っ向から批判する王制論が出てしかるべきだった。フランス革命のときは,エドマンド・バークの『フランス革命の考察』が出て,革命を徹底的に批判した。フランス革命(ルソー)をバークの目を通して読み,バークをフランス革命(ルソー)を通して読む。これぞ,知識人たるものの責務だ。ネパール共和制革命には,そんな知的格闘はひとかけらもみられない。 4.何も残らない しかし,もし知識人やジャーナリストがその意味を批判的に問わないならば,王制は単に破壊されただけ,遺産の浪費で,あとには何も残らない。バーク抜きのルソー。実にむなしい。 2008/5/28 赤化ネパール:世界の奇跡か?谷川昌幸(C) ソ連崩壊で資本主義・自由主義が共産主義・社会主義に勝利したはずなのに,これに敢然と反旗を翻しているのが赤化著しいネパール。世界の奇跡といってよい。 制憲議会の共産党系議席数(2008.5.28)
(注)「共産党系」には主要共産党系のみ算入。Communist Party of Nepal (Maoist); Communist Party of Nepal (UML); Communist Party of Nepal (ML); Janamorcha Nepal; Communist Party of Nepal (United); Communist Party of Nepal (Unified); Rastriya Janamorcha: Nepal Majdoor Kishan Party 。内閣指名26議席は未定。 全議席の6割以上が共産党系。ネパールは真っ赤に燃え,エベレスト山頂の赤旗も現実のものとなった。今後,エベレスト登頂には赤旗掲揚が義務づけられるかもしれない。 これはネパール人民の選択であり世界は見守っておればよいことだが,これまで外国に対しそうした態度をとれなかったのが,世界の警察官アメリカ。ドミノ理論にとりつかれ,世界各地で防共作戦を展開,介入を続けてきた。それが,いまでは様変わり,ネパール赤化を容認する方針のようだ。 その理由の一つは,アフガン,イラク介入で深手を負い,もはや余裕がないこと。対北朝鮮宥和政策と軌を一にしている。 もう一つは,共産主義への安心感。ソ連は崩壊し,中国は「社会主義市場経済」となってしまった。中国はライバルではあるが,もはや共産主義の故ではない。キューバ共産主義も崩壊寸前だし,もはやイデオロギーとしての共産主義は恐れるに足らない。これからの敵は,体制内化しコントロールできないテロリスト集団だ――アメリカはそう考えているようだ。 ネパール・マオイストも,少なくともこれまでの行動を見るかぎり,本家中国の社会主義市場経済以上に資本主義的であり,弱体化しつつある半封建的特権諸階級の敵ではあっても,ネパール資本主義化の敵ではない。むしろ,半封建的諸階級を一掃し,資本主義化への道を掃き清めてくれるブルジョアジーの友となる可能性の方が大だ。 「ネパール共産党-統一マルクス・レーニン主義派(CPN-UML)」を共産主義政党とは,誰も考えてはいない。こんな立派な党名をもち,マルクス,レーニン,毛沢東を引用し肖像を飾っているのに,この党は高位カースト,特権官僚,富裕資本家の友と見られている。マオイストも同じではないか・・・・。米印も中国もそう考え,安心しているのだろう。 マオイストが本物の共産主義・社会主義政党であるかどうか? 本気で,新民主主義革命をやる気があるのかどうか? グローバル市場経済化の狂気に対抗する新しい共産主義・社会主義の旗手となり,エベレスト山頂に世界解放の赤旗をひるがえすことが出来るかどうか? これは注目に値する。 2008/5/27 26議席配分後の議席予想谷川昌幸(C) ネパール共産党毛沢東主義派(CPN-M),コングレス党(NC),ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派(CPN-UML)の三大政党が,内閣指名26議席の配分につき,ほぼ合意。10名は,NFIN推薦の少数民族代表の中から各党推薦に基づき内閣が指名する。といっても,実際にはボスの談合による山分けだ。こんな封建遺制のような非民主的な制度は,廃止した方がよい。 制憲議会・全議席予想(2008.5.27)
(注)赤字は予想議席数 2008/5/26 議席未確定でも開会?谷川昌幸(C) 1.26議席の行方?
内閣指名だから,マオイスト(7),コングレス(12),UML(7,敗北後離脱),ULF(1),PFN(1),NSP(1),JN(1)の合意がなければ,コイララ首相は指名できない。宙吊り議会の26議席は大きい。非民主的ボス取引,ぶんどり合戦が繰り広げられているのだろう。2年(または2年半)の議員生活は美味しい。 この種の指名議席は以前からあった。多民族国家の工夫あるいは権力補強のためではあろうが,それを民主主義(1人1票)を原則とする下院に持ち込むのは,やはり弊害が多い。 2.国王の行方? クーデターは,やってやれないことはないが,もはや時代遅れ,分が悪いのでやめた方がよい。共和制が宣言されたら,いさぎよく一市民となり,元国王として,世界ヒンズー協会名誉総裁(?)として,文化活動,社会活動に専念されるとよい。 王制復古の目はある。シャハ王家は,ラナ将軍家の104年におよぶ専制支配の屈辱に耐え,1951年,見事王政復古を成し遂げた。 日本の天皇家も,長い武家政治を覆し,1867年大政奉還させ天皇制を復活,敗戦の戦争責任さえ「人間宣言」の奇策で乗り越え,今日におよんでいる。 イギリスでは,ピューリタン人民裁判で国王処刑,共和制宣言となったが,10年後には王政復古となり,以後,世界の立憲君主制民主主義のお手本となってきた。 だから,ネパール王室も,クーデターの悪あがきはやめ,文化活動,社会活動に専念し,「さすが王家は違う」と世間に認められるようにすれば,王制復古の目はある。 たとえ,王制復古がかなわなくても,醜悪な社会主義市場経済やグローバル資本主義を断固拒否し,優雅に滅びていくのは,いかにも高雅な王家らしく,こよなく美しい。 2008/5/24 1国2政府と迷走憲法論議谷川昌幸(C) 1.統一革命人民評議会復活宣言(2008.2)
包括和平協定以前は,各地に人民政府が設立され,国軍と実力拮抗の人民解放軍(PLA)をバックに,学校教育,村落開発,人民法廷裁判など,立法・行政・司法を幅広く行っていた。だから,包括和平協定の宣言だけでは,人民政府の諸活動を一気に全廃することは出来ない。PLAは宿営所に収容され,国連ネパール政治ミッション(UMNIN)に監視されているものの,他の諸組織,たとえば青年共産主義者同盟(YCL)などはそのまま残り,党組織のはずなのに,依然として人民政府機関のような意識でこれまで通り行動している(あるいは,しようとしている)のだろう。 2008年2月のバッタライ議長のURPC復活宣言は,一つには,その活動実態の追認であり,もう一つには,制憲議会選挙に向けた示威作戦であったと思われる。事実,YCLのガネシュ・マン・プンは2008年2月6日,マオイストがその気になれば,「5分でカトマンズを制圧できる」と豪語した。マオイストは,いつでも代替政府の用意が出来ている,という脅しだ。 むろん,バタライURPC議長は,「並行政府」とは認めていない。包括和平協定通り地方政府が再建されていないので,やむなくURPCが人民のために問題解決や開発行政に当るというのだ。 これに対し,UNMIN,国家人権委員会(NHRC)はむろんのこと,コングレス党(NC),統一共産党(UML)などの諸政党も,直ちに声明を出し,「並行政府」の復活を非難し,解散を要求した。しかし,上述のように,撤回の報道はないので,現在もURPC指導下の人民政府ないし実質的にそれと同じものが存在していると見るべきだろう。 2.迷走する憲法論議 一方,NC,UML等の既成政党にも,法治主義の観念は希薄だ。法は支配の手段であり,都合が悪くなれば,いつでも変えてもよいと考えている。神法としての法といった厳しさや,法は自分の手を縛るものだという自覚がまるでない。 このマオイストと諸政党が,いま憲法を巡って大論争をしている。事実上の1国2政府であり,法治意識も希薄だから,もうムチャクチャ,どうにもならない。 そもそも暫定憲法は大原則だけ決め,あとは制憲議会で制定される新憲法に任せるのが筋だ。それなのに,バカでかい暫定憲法をつくり,すでに3回も改正をし,それでも飽きたらず,またまた無数の大改正をしようとしている。新築までの仮設住宅をピカピカの御殿にするのと同じ事だ。主な改正提案は次の通り。 (1)国家元首の規定新設 (2)2/3多数決の廃止 これは常識であり,それが分かった上で「完全民主主義」のためリスクを取り,2/3多数決を成文化したはずなのに,その意気込みは今いずこ,実際には一度も試すことなく,あっさりやめてしまうのだそうだ。 (3)SPA合意の不要化 (4)憲法会議,安全保障会議の構成変更 しかし,選挙結果が分かってからそんなことをいっても,どうにもならない。人民への約束である暫定憲法の下で選挙したのだから,たとえマオイストが2会議を独占しても,それはそれで仕方ない。それが法治主義というものだ。 3.人治から法治へ しかし,これだけ社会が拡大・複雑化してくると,もはや予見困難な人治は無理だ。あらかじめ明示したルールに全員で従うという法治に移行せざるをえない。 憲法の中身以前に,法治のために議論し,努力した方がよいのではないか。 2008/5/19 ネパールと包摂参加民主主義:石川論文を手掛かりとして谷川昌幸(C) Ⅰ 世界最新政治への驀進 いまネパール政治を導いているのは,社会諸集団の「自治(autonomy)」,「包摂(inclusion)」と「参加(participation)」,「権力分有(power-sharing)」であり,そのための制度としては共和制,連邦制,比例制が実現したかあるいは実現間近であり,さらには社会諸集団の「自決(self-determination)」,「拒否権(veto)」,「分離権(secession)」までも唱えられている。あまりにもスゴくて目がくらくら,腰を抜かしそうだ。 Ⅱ 自治と包摂参加:石川論文を手掛かりに 1.ガバナンス Governanceは,「統治」「管理」のことであり,governの語源はgubernare(操船),つまり国家という船を操ることだ。だから,「統治」と訳してもよいのだが,そうしないのは「ガバナンス」に別の意味を与えたいからであろう。石川氏の文学的表現では,次のようになる。 「ガバナンスは,中心権力をもち,権威的支配をビジュアルに成立させるガバメントとは違い,中心的権力や権威が不在なままに諸単位が統治にかかわって生み出す秩序だといわれる。しかし,実際には,いくつもの大小の中心を併存させ,絶えざる危機に直面しつつ,さまざまに工夫される安全のための手続きが合体し,衝突し,アメーバのように形を変え,混血的な一時的権力体を生み出し,消えゆき,星雲のような在りようを示す。それは絶えず政治を生み出す場である。降りかかる困難から人びとを救うことは,出来上がった手続きを通じてはできない。組織の論理,制度の倫理を超えるところで,自由に情況に対応し,結果を見つめる完結し得ない作業が永劫に続く場,それがガバナンスである。」(p.2-3) わかりやすくいえば,理念としてのインターネット世界のようなもの,あるいはより正確には,ネグリ=ハートのいうマルチチュードが生み出す世界のようなものであろう。 2.自由主義者の「良きガバナンス」 この近代主義的「良きガバナンス」論では,公開性,透明性,説明責任が求められ,社会諸集団は「包摂」され,市民社会の中に「場所」を与えられるが,そのかわり「参加の名の下に統治の枠の中に組み込まれてしまう」(p.4)。これは,権力空間であり,「中心」が周縁部を支配する。「克服されるべき危機は中心によって構築され,取り組むべき政策的問題群も選別される」(p.4)。 以上の「ガバナンス」と「良きガバナンス」の対比は,ネグリ=ハートの「マルチチュード」と「帝国」のそれにほぼ対応すると見てよいだろう。そして,著者の立脚するのは,いうまでもなく前者「ガバナンス」の立場である。 3.パワー・シェアリング 「パワー・シェアリング(権力分有)は,自治権の相互承認を柱とする協同統治体制を意味する。それは,支配-従属関係を核とする集権的統治(垂直的権力関係)に対し,権力の共同行使を核とする多層分権的統治(水平的権力関係)に力点を置く概念である。」(p.7) この権力を分有するのは民族等であるが,石川氏は,そうした構成単位を「実体化(閉域化,絶対化)」するのは誤りであるとし,「構成諸単位をつねに『境界線をもった単位』として,内実そのものは流動的にとらえている」(p.6)とされる。 これは著者のいうとおりで,民族等を「実体化」してしまえば,今度はその民族内の中心-周縁(支配-被支配)が問題になる。しかし,現実問題として,「集団の権利」を認めると,集団は実体化してくる。実体化するからこそ,個人の集合ではなく,「集団」そのものが権利(集団的権利)をもつのだ。集団の何らかの実体化なくして,集団の権利を認めるのは難しいのではないか? ここが,理論的にも,現実政治としても,難しいところだ。 (2)パワー・シェアリング体制 パワー・シェアリングにおいては,「あくまで自治(self-rule)の承認による共治(shared rule)が原則であり,集権と分権とのさまざまな組み合わせによって構成単位の自治を確保し,人口の多寡にかかわらず,集団としての存在比例(proportionality)への配慮を柱とした大連合体制を組むのが特徴である」(p.9)。 このパワー・シェアリングの体制は様々であるが,代表的なのは,著者によれば次のようなものである(p.9-12)。この分類は大変わかりやすく,ネパールの憲法論にとっても参考になる。
4.多民族民主主義 石川氏によれば,そうした立場からは,パワー・シェアリングはエリート協調主義であり,拒否権付与で多数決デモクラシーが否定され,集団的権利の肯定により特定のサブカルチャーが実体化され個人の権利保護が危うくなるといった批判,つまりはアイデンティティ政治への批判がなされている(p.12-13)。 したがって,この立場からは,多民族社会で暴力的紛争後,パワー・シェアリング体制とするとしても,それは「あくまでも暫定的な措置,あるいは非民主性に目をつぶった上での移行的措置」(p.13)ということになる。 しかし,石川氏は,パワー・シェアリング体制を民主主義を実現しうる政治的仕組みと考え,卓抜な哲学的表現で次のように説明されている。 「パワー・シェアリング体制を独特なものにしているのは,多様性への深い理解である。そこには,極化を許容する姿勢が組み込まれている。それは,極としての存在を他の極との相互依存関係においてとらえ,極と非極との相即性を政治空間の構成原理とする姿勢である。・・・・極は,他者媒介的であり,同時に他者否定媒介的でもある。極間の関係は,非連続的性と連続性とを両立させ,相互媒介的で,他を内に含み,同時にそれを否定して自己自身であるような関係である。それは,ちょうど棒磁石のN極とS極の関係に等しい。NもSも,それぞれに絶対的極である。しかし,その極性は対立する他の極の存在とともに成立している。二つはそれぞれに有(実体)でもなく,無(単なる依存性)でもなく,有無相通ずる相互性のもとにある。これが,ナショナルあるいはエスニックなアイデンティティの在りようとなる。一即他,他即一のこのような単位の在りようによって極をとらえるならば,国家やエスニック集団を実体化し,本質主義的単位として,そのアイデンティティと主権性とを承認させようとする姿勢はどこからも出てこない。」(p14) これをもう少し具体的に言い換えると,次のようになる。 「人々がその生まれて生きる環境の違いを反映した政治的・社会的秩序を生き,独自な文化を育み,そこに共有されるアイデンティティを重視するとしても,それはきわめて自然なことである。そうした文化的価値の共有を踏まえた行政区画からなるパワー・シェアリングの工夫は,領土的自治の承認,あるいは機能的で非領土的な自治単位を肯定し,単純に国民人口規模の多数の意思のみを実現していく普遍的正義観とは異なる秩序への視点を生み出す。それは,もちろん普遍を否定し,すべてを相対化することを意味してはいない。そうではなく,とことんその特殊な生を生きた果てに,おそらくは普遍に通ずるものに触れることができるという理解がそこにはあると考えるべきだろう。」(p.15) この説明は,よく理解できる。ネグリ=ハートがマルチチュードで主張していることも,おそらくこのようなことであろう。 Ⅲ 包摂参加民主主義の可能性 グローバル化により,もはや近代主権国家をそのまま維持できないことは自明なことだ。日本の教科書では,いまだ近代主権国家を当然の前提とし,主権,領土,国民を排他的な不可侵なものと教えているが,そんな見方はもはや現実とはほど遠い。グローバル化により,それらは急速に相対化され,すでに世界社会も国内社会も多かれ少なかれパワー・シェアリング体制となり,今後さらにそれが加速して行くであろうことは確かである。したがって,ここでの問題は,それがどのような過程を経て進行するかである。 核心は,集団の権利と自治である。石川氏も指摘するように,集団の自治を認めるなら,当然,その延長として自決権があり,国家(あるいは所属政治組織)からの離脱権も認めざるをえない。すでに個人には国籍離脱権があるのだから,集団に権利を認めるなら,国家離脱権も認められて当然だ。民族自治は民族自決であり,これは分離独立の権利だ。たとえば,九州は東京に従属する必要はなく,いつでも日本から分離し,韓国や中国と連合を組んでもよいわけだ。 しかし,問題は,離脱権さえ認めた上でのパワー・シェアリングによるガバナンスが,現実にどこまでうまくいくかということだ。石川氏自身,「いずれのケースもうまく機能しておらず,これから制度化するプロジェクトについても,誰の目にも困難さの方が際だっている」と指摘している通りだ。 特にネパールのような途上国の場合,いったんアイデンティティ政治を認めると,およそ個人の自由や人権と相容れないような文化や集団がパンドラの箱から次々と出てくる恐れがある。法では禁止されていても,実際にはまだ農奴制に近いものがあり,これだって立派な文化といえる。周知の売春集団だって,一つの社会集団だ。そんな有象無象が文化自治,集団自治を主張し始めたら,収拾がつかなくなる。あるいは,もっとやっかいなのは地域や民族。タライ地方が民族自決でネパールから分離すれば,実際には,インド併合となる。その場合,タライ内の非インド系民族はどうなるのか? さらに見落としてならないのが,政治体制はパワー・シェアリングで多民族の分立自治化していっても,非政治領域とくに経済は際限なくグローバル化し,その支配力は巨大化していく。この強大化する非政治的権力の支配に,分節化・多元化し弱体化した個々の政治単位がどこまで対抗しうるのか? パワー・シェアリングは,自由・独立の個人の権利を平等に保障することを理念とする近代主権国家を解体することによって,実際には,グロ-バル資本主義の普遍主義的支配を裏から支えることになるだけではないのか? つまり,それはネグリ=ハートのいう「帝国」に敵対するようでいて,実際にはその下働きをすることになるだけではないのか? たとえば,ネパールにおいて,近年,民族の言語や文化を破壊しているのは,国内多数派民族というよりは,むしろグローバル資本主義である。中央国家権力を弱体化させれば,グローバル資本のネパール支配はさらに容易となり,各民族のグローバル資本主義への従属はさらに進行するであろう。 国家相対化が時流であることを認めた上で,私はあえて言いたい。 ・すでに強大な近代国家権力を確立し終えている先進諸国には,途上国の近代的国家主権確立の努力を非難・妨害する権利はない。 ・途上国には,中立的,合理的,合法的な近代的国家主権を確立する権利があり,それによって得られるものは,失うものよりも断然多い。 2008/5/14 マオイストとヘラクレイトス,プロ独から多党制へ?谷川昌幸(C) マオイスト大勝で準官報ライジングネパールは模様替え,マオイスト記事も様変わりした。5月13日社説,リツ・ラジ・スベディ「ヘラクレイトス,弁証法,共産主義」もその一つ。要旨は次の通り。 1.万物流転の弁証法 2.バンダリの人民多党制民主主義 ところが,バンダリの追従者たちは,ネパール社会の弁証法的本質を見落とし,バンダリ理論を前進させることをしなかった。 3.バンダリとUMLとマオイスト マオイストの大勝は,ヘラクレイトス的なものと理解すべきだ。ネパール社会は,不断の弁証法をもち,変化を求めている。マオイストは,「変化の担い手」となり,人民に支持され,勝利したのだ。 4.いくつかの疑問 (1)マオイストへの乗り換えのすすめか? マダン・バンダリ(1952-1993)は,UMLの理論的基礎を築いた偉大なイデオローグであり,青年層に圧倒的な人気を博し,UML書記長(1989-1993)であったが,何者かに暗殺されてしまった(公式発表は事故死)。いまでもUMLの英雄であり,したがってマオイストこそバンダリの真の継承者となれば,UML支持者たちは安心して心置きなくマオイストに鞍替えできる。このライジングネパール社説からは,そのような含意が読みとれる。 しかし,マオイストはUMLの修正主義を徹底的に批判して党を設立,人民戦争を始めたのであり,バンダリと同じといわれても困るだろう。一方,マオイストも現実的たろうとすれば,バンダリ路線に向かわざるをえず,その観点から見ると,このスベディ論文はかなりの癖ダマとも思える。困るか助け船か,もう少しするとわかるだろう。 (2)万物流転と民主主義 不動の原理原則とそれに依拠する主体(subject)という考え方は,ポストモダンの現代では流行らないが,そうした主体がなければ,われここに立つ,だから責任は自分にある,という主体的行動は生まれない。万物流転では,責任倫理は成り立たず,民主主義は存立しえない。 その意味で,スベディ論文はとんでもない議論だが,いかにもネパール的で,大衆受けはする。万物は流転し,人々は流されていく。流れに乗るのが賢い。スベディ氏は,それを「真の民主主義」といっているが,そんなものが真実であるはずがない。 (3)マオイスト原理主義への期待 2008/5/12 完全民主主義の不完全性谷川昌幸(C) 7党+マオイストが満場一致で制定した現行暫定憲法の大原則は,「完全民主主義国家(fully democratic state)」。しかし,この世に「完全」ほど胡散臭く,偽善的で,危険なものはない。先進諸国は,それをよく知り,非民主的諸制度で,民主的諸制度を牽制抑制している。理想主義は,つねに現実主義からの批判を必要としているのだ。 1.コンセンサス政治の非民主性 2.比例制の非民主性:マオイストの場合 このようなもめ事は他党でも起こっているだろうが,ここで注目すべきは,こうした反党活動にマオイスト中央がどう対処するかだ。党是の民主集中制で,ビシッと粛正するか? 比例区名簿の非民主性とともに,この点にも要注意だ。 3.指名26議席の非民主性 「憲法第63条(3)(c) 26議席は,卓越した人々,および(a)(b)による選挙で選出されなかった少数民族,先住民族出身の人々であって,国民生活に顕著な貢献をした人々の中から,内閣が合意(コンセンサス)に基づき,指名する。」 こうした規定は以前からあるが,これは明らかに非民主的。少数決の最たるもので,有力者のコネとゴネとネゴの温床。誰かがゴネると,もう決まらない。26議席もが。 ヒマラヤンタイムズ(5/1)によると,NEFINは,59先住民族に各1議席ずつ割り当てることを要求し,諸政党は26議席をそれに当てることを約束していた,と主張している。彼らは,この要求が通らなければ,抗議行動を開始し,制憲議会も阻止する,と主張している。政府公認59先住民族のうち,28民族はまだ議席を配分されていないという。 多民族,多文化社会では,何らかの包摂参加によるコンセンサス政治は避けられないが,一方では,これは選挙民主主義ではない。少数決であり,多数決ではない。 ここでも注目すべきは,選挙民主主義により圧倒的多数をえたマオイストが,こうした非民主的権利要求にどう対応するかだ。中国共産党は,憲法で民族自治を高らかに宣言しながら,実際には,金持民族・地域(香港,マカオなど)の経済的利用のためだけに民族自治を適用し,他はチベット弾圧に見られるように民主集中制で中央に強圧的に服従させている。マオイストは,本当に少数民族の利益を尊重しうるのか。 4.首相も選出できない完全民主主義 こうした規定は,重要事項についての決定を慎重にするためのものであり,たいていの憲法にあるが,対象となる事柄や政治文化を十分に考慮しないと,実際には非民主的な裏取引政治を助長することになる。 5.法の支配は憲法から それはケシカランといってみても,「法の支配」とは,もともと非民主的なものなので,仕方ない。法は多数派はむろんのこと,人民自身ですら拘束する。暫定憲法は,7党とマオイストが満場一致で承認した憲法だ。都合が悪くなったから変える,というのでは,憲法とはいえない。 自分の手をも縛ることを覚悟して法をつくり,その法を守る練習をしないと,どんな新憲法を作っても,絵に描いた餅,何の役にも立たない。まずは,よほど不合理でないかぎり,現行憲法を守ること――そこから始めるべきだろう。 2008/5/9 プラチャンダはネオ・マオ?谷川昌幸(C)
DB Grung,"Neo-Mao in a New Nepal?,"(Kathmandu Post, May 8)を,タイトルにつられ,読んでみた。
著者は,プラチャンダの大勝利をたたえた上で,権力をとったら,彼は民主主義の国際基準を遵守し,場合によっては自分の手足たるYCLでさえも切り捨てるべきだ,と忠告する。
「人民は,プラチャンダが新生ネパールの真に民主的なネオ・マオとなることを期待している。」
しかし,これはマオイズムの放棄,ブルジョア化,自由民主主義化ではないのか? もしそうなら,「真に民主的なネオ・マオ」などとごまかさず,そうとはっきり述べるべきであろう。
それとも,「ネオ・マオ」は,鄧小平以後を指すのだろうか? たしかにマオイストの選挙公約には「社会主義的民族資本主義」を目指すと明記されていた。これは中国の「社会主義市場経済」と同じものではないのか? もしそうなら,はっきりと,ネパール・マオイストは中国共産党のようになれ,というべきだろう。
もっとも,この場合は,天安門事件からチベット問題にまで至る強権的弾圧に見られるような,改革開放のための代償が求められることにはなるであろうが。
「ネオ・マオ」は,どちらなのだろう? はっきりさせてもらいたいものだ。 2008/5/5 UNMIN,7月撤退へ谷川昌幸(C)
各紙報道によれば,UNMINは7月22日の任期満了とともに撤退の予定だ。選挙のお祭り騒ぎが終わり,これから諸政党が新政府設立・運営,新憲法起草・制定の重責を担うことになる。当然といえば当然だが,大丈夫かなぁ?
カンチプルの心配は,UNMIN特需後の失業。そして,宿営所の人民解放軍2万人と資格不認定兵士(1万人?)の処遇。そう,実質的問題は何一つ解決されていないのだ。
そして,さらに心配なのは,選挙特別期間終了後の物資補給。原油はますます高くなりそうだし,それよりも心配なのは穀物,肥料等の高騰。
UNMINは,「ヒマラヤ選挙成功」を手みやげに,絶好の時期に引き上げる。わが自衛隊も,これからさき当分,これを宣伝に利用できるだろう。
で,それで,あとはどうなるの? むろんUNDPなどは残るので,それらが平和構築支援を継続するであろうが,選挙民主主義で大騒ぎしたあと始末ができるかどうか,大いに不安である。 2008/5/1 カースト/民族別当選者比率 |
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