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2008/6/30 ヤミ制憲議会と生臭大統領谷川昌幸(C)
1.制憲議会の違憲性
いまのネパールは,法治(rule of law)なのか,それとも革命(クーデター)状況なのか? 法治でないことは明白だ。なぜなら,暫定憲法により選挙したものの,制憲議会(CA)は正式にはまだ成立していないからだ。 内閣指名の26議席がまだ空席。憲法規定の定数601のうちの26だが,包摂原理のための憲法的工夫でもあるこの26議席が埋められていないのは,数以上に原理原則において問題である。
現在のCAには合法性はない。国権の最高機関たるものが,平気で違法行為を行っている。山賊集会と変わらない。
むろん,革命(クーデター)状況なら,法律に従う必要はない。革命(クーデター)勢力がすべてを決める。革命(クーデター)独裁。
ネパールの現体制は,革命(クーデター)独裁体制なのだろう。しかし,もしそうなら,独裁3党は,女々しく「法の支配」や「民主主義」などと言い訳をすべきではない。暫定憲法も他の法も無視し,非合法CAで人民のための独裁政治をやっていく,と堂々と宣言すべきだ。
2.生臭大統領
この奇怪な制憲議会では,これまた珍妙な大統領論議が繰り広げられている。 セレモニアル(儀式)大統領だそうだが,いうまでもなく「儀式的」とは「実権を持たない」という意味だ。何を聞かれても「あ,そう」と答える。理想的には息も食事もしないこと。生臭い発言や排泄が不要だからだ。セレモニアル元首には,それほどの威厳が求められる。
それなのに,いったい何だ。セレモニアル大統領を国軍司令官とし,はては諸勢力の調整役とするのだそうだ。パワーシェアリング(権力分有)のポストなどと,アホなことを言っている。だったら,セレモニアルなどというべきではない。
独裁3党のセレモニアル大統領は,限りなく,かつての「国王」に近づいていく。ネパールの混乱は,政治的混乱というよりは言語的混乱だ。論理学初歩の訓練から始めるべきだろう。
3.約束を守ることから始めよ
難しいことではない。まずは約束を守ること。暫定憲法は全国民,全世界に対する公約だ。その約束の下に選挙したのだから,その通り実行せよ。実行できないのなら,CAを解散し,新しい公約を掲げ,選挙をやり直すべきだ。 国権の最高機関が,ごく初歩的な約束ですら無視し,恬として恥じない。革命(クーデター)状況だから,何でも許される。ネパール式人民主権とは,こういうことか。 2008/6/29 朝日の血液型優生学谷川昌幸(C) 朝日新聞(6月27日)が,また血液型政治家分類をやっている。血液型と政治信条・政治能力とは全く無関係なのに,あえてそれをやるのは,ナチス優生学を日本政治に導入する意図があると疑われても仕方ない。もしそうでないのなら,血液型政治家分類の必要性を理論的に論証して見せよ。 血液型政治家分類の危険性については,すでに何回か指摘し,朝日新聞「声」欄にも掲載された(「血液型の記載,記事には不要」朝日新聞西部本社版2006.10.8)。その際,私に確認電話をかけてきた西部本社の担当者は,私の批判の正当性を全面的に認め,なぜ東京本社がこのような血液型記載をするのか理解できないと語っていた。 にもかかわらず,また血液型政治家分類を,しかも三面ではなく政治面に堂々と掲載している。これは故意だ。朝日は,血液型優生学を導入し,日本に人種差別のタネをまき,大きく育てるつもりなのだ。 人を,自分の意志ではどうにもならない生物学的特徴により類別し,それを政治信条・政治能力と関係づけることが,いかに危険なことかは,激しい人種差別や民族紛争を経験してきた国々では常識だ。だから,そうしたことを惹起しかねない言動をしないよう,特にマスコミは細心の注意を払っている。 ところが,天下の大朝日が,またまたバカのことをやった。さんざん批判され,理論的に反論できないことを十分に知った上で,意図的にやった。これでは,朝日新聞社の中に,血液型優生学主義者がいるといわれても仕方あるまい。 こんなことは絶対に許されない。朝日東京本社は,わかった上で意図的にやっているので,もう朝日紙上では反論しない。ネットで,嵐のような朝日批判が巻き起こることを期待している。 ▼朝日新聞の血液型優生学関係記事(一部) livedoorニュース(2007.8.7) 朝日新聞(1990.11.21) 2008/6/28 スワンナプーム空港の倒錯と愚劣谷川昌幸(C) バンコクのスワンナプーム空港を使うたびに,その滑稽な植民地的倒錯に苦笑せざるをえない。今回は,写真付きで,実態をご紹介する。 (参照:過剰と欠如:スワンナプーム空港の悲喜劇/スーツケース,連続被害) 1.ソファーなし そのため,今回6月16日には,なんと通路に布を敷き,寒さでふるえながら時間待ちをしている人を見た。怪しまれると困るので写真は撮らなかったが,グッチか何かの高級店の前で野宿。それで平気なのが,植民地文化なのだ。 2.トイレなし 少し早めに最終荷物検査を受け,搭乗待合室(下図エスカレータ下)に行こうとすると,まだ開いていない。そこで乗客は通路に1,2時間待たされることになるが,ここにはなんとトイレがない。6月16日も,出ることも入ることも出来ない数十人の乗客が通路で怒りまくっていた。その一人が,私。
3.寒い リュックの衣類を全部着込み,やはり寒いタイ航空機で関空に着いたとたん,暑くなり,半袖になった。南国で寒く,北国で暑い。まさしく,植民地的倒錯だ。 4.暗い 倒錯の極みが,間接照明。明るいのは天井だけ。通路も待合室も恐ろしく暗い。傘を上下逆にするだけだから,たいした費用はかからない。宗主国に気兼ねせず,南国らしく明るくすべきだ。
5.高い この点でも,関空は偉い。ユニクロを出店させ,レストランも大学食堂より少し高いくらい。ユニクロ関空とグッチ・スワナンプーム。大衆文化と植民地文化の比較研究に絶好だ。 5.愚劣 やれやれ。こんな愚劣なことをしていると,本物の野鳥が飛んできて,飛行機を自爆攻撃するぞ。飛行機のために野鳥を撃ち殺しておいて(多分そうしているのだろう),そのかわり模型の鳥をおく。愚劣の極みだ。 固いベンチで,おしりが痛くなった。気晴らしに,他の愚劣を見学に行こう。 2008/6/27 河川敷スラム2008/6/26 ATM,グローバル搾取の象徴谷川昌幸(C) ATMはグローバル搾取の象徴だ。そもそも金や金儲けは,古来,卑俗なものと敬遠されてきた。それを人間生活の中心に置く資本主義は,根本的に間違いである。 それでも勝ち組であればまだしも,資本主義はかならず大多数の人々を負け組にする。マオイスト政権になったら,初心に立ち戻り,資本主義打倒を掲げ,まずこのような24時間オープンATMを木っ端みじんに破壊すべきだ。 19世紀のラダイト(機械打ち壊し)運動は,資本主義化は阻止できなかったが,工場の劣悪な労働条件の改善に大きく寄与した。 いまATMを破壊しても直接的な効果はないかもしれないが,24時間入出金する現状の異常さ,非人間性を象徴的に告発する効果はある。 リキシャと24時間ATMの取り合わせを異様とも感じなくなったら,おしまいだ。 カトマンズ・ゲストハウス筋向かいに設置されたATM(2008.6.18) 2008/6/25 ゴミまみれのカトマンズ谷川昌幸(C) カトマンズ盆地は,ゴミまみれ。今回の直接的原因はゴミ埋め立て処分場付近の住民の反対運動だが,たとえそれが解決しても,ネパールのゴミ問題には他にも文化的,経済的に難しい問題があり,根本的な解決は容易ではない。 バグバザール・ラトナ書店前(2008.6.20) 学生街で書店も多い。100メートル先にはパドマカンヤ女子大がある。写真は撮り損ねたが,この名門女子大の正門前にも,これに数倍する生ゴミの山が出来ていた。いくら蓮の花は泥沼の上に咲くとはいえ,聖処女お嬢様たちが鼻ををつまみながら登下校されるのを見るのは忍びない。
パタン王宮広場(2008.6.18) 美しいパタン王宮前も,ご覧の通り。それに加え,罰当たりにも広場の各所がバイク置き場になっていた。神々をメタンガス・排ガス責めにするつもりか。
2008/6/24 交通スト破り,UN谷川昌幸(C) 交通ストは,ネパール学生,労働者の権利だ。国連(UN)は権利啓蒙のため,ネパールに派遣されている。そのUNがスト破り。この人民への裏切りは,いずれ怒りを招き,UN攻撃となるであろう。 交通ストのやり方はたしかに問題だが,それはネパール人の解決すべき問題。学生,労働者が慣行に従い権利要求のためストをしているのに,国連が特権的にそれを無視してよいわけがない。 私自身,帰国日に,スト破りをした。これはいけないことだった。リキシャを雇い,1時間早めにホテルを出るべきだった。深く反省している。
交通ゼネスト下,豪華4駆で夢の庭園レストランへ(2008.6.20) (注)この「Dreams」は夢のように美しい庭園らしいが,入園料があまりにも高いので,まだ入ったことがない。楽しめるのは軽食だけかもしれない。UN4駆は,ここに長時間駐車していた。きっと「重要会議」だったのだろう。いわずもがなだが,手前の路上販売の食品(何だったか確認しなかったが)の何百倍もする。女性は,豪華4駆と,その向こうの豪華庭園レストランを見ている。女性の背後には,顧客となるであろう無数の庶民がいる。 2008/6/23 交通スト,自転車でスイスイ谷川昌幸(C) 1.交通ゼネスト万歳 そもそも私は,カトマンズ盆地の交通ゼネストそのものには,反対ではない。いや,むしろ賛成といってよい。 自転車で走ってみると,リングロード内(市内)では車は不要であることがよく分かる。もともとカトマンズは徒歩圏内の町だったし,リングロードまで拡大しても自転車で十分だ。盆地内の車は罪悪といってよい。車税,燃料税を100倍にし,車を閉め出すべきだ。生徒も学生も,徒歩か自転車で通学すればよい。いまやヨーロッパでは,自転車の方がかっこよいのだ。 2.パタンまで20分 サネパは天国。高級住宅地で花々が咲き乱れ,さわやかな高原の涼風が心地よい。バッチリ仕事をし,昼食はラナさんか誰かのお屋敷を改装したレストラン。中庭のプールでは良家の子女たちがお行儀よく水遊びをしている。それを愛でながら昼食。植民地的退廃のけだる~い雰囲気。 3.キルティプールへ 前半は降りでラクチン,すぐキャンパス入り口に着いた。校門からの登りがちょっと辛いが,排ガスがなく苦にはならない。聖牛をからかいながら,汗をかきかき登る。そして,20分弱で到着。車,廃絶せよ! 4.タメルへ この食品市場やゴミまみれの市街地を見ていると,これでどうして感染症が流行しないのか不思議だ。いつかは,赤痢か何かが大流行するにちがいない。排ガスはないが,ゴミ腐敗臭からは逃れられなかった。 最初の橋を渡り,坂道をバサンタプール(旧-旧王宮)まで登り,タメルへ。車がいないので,ここも快適。かつてカトマンズは美しいレンガ敷き通路だったのに,車が全部破壊してしまった。自転車なら,そんなことはしない。破壊されるべきは,レンガではなく,車だ。 こうしてキルティプールからタメルまで,約30分。車なんか不要なのだ。むろん,運動不足の老人としては,少々,疲れたことは事実だが,これは快い疲れであり,車を正当化する理由にはならない。カトマンズから車を追放せよ! (訂正) K氏のご指摘をいただき,ビシュヌマティ川の「右岸」と訂正しました(20086.25)。 2008/6/22 交通ゼネスト:危機一髪脱出谷川昌幸(C)
交通ゼネスト2日目、今日は帰国日だが、まぁ大丈夫だろうとタカをくくっていたら、大誤算。命がけの脱出となった。
タクシー代は、とりあえずタメルから空港まで1000ルピー。表通りは各所で封鎖されているので、裏通りを行く。助手席に斥候を乗せ、危なそうなところでは、状況偵察に行かせる。この調子で、スズキ・タクシーがぎりぎり通れる迷路のような通路を右往左往。空港近くでは、河川敷の民家前で女性たちがシラミ取りをするのをしばし見学。そして、結局、空港手前で降ろされ、1000ルピーを払い、25キロのトランクを人力で運んでもらうはめになった。計2000ルピー。
以前なら、「ツーリスト・オンリー」と掲示しておけば通してくれた。ところが、いまでは、その外人特権は使えない。掲示があっても襲われボコボコにされる。民主主義万歳!
わがタクシーも危機一髪であった。念の入ったことに、裏通りにも監視がいて、わがタクシーも見つかった。20メートル位さきから棒や石を持ち、血相を変え、こちらに走ってくる。ドライバーは、とっさに左の路地に逃げ、子供や主婦をハネかねない勢いで、必死に脱出を図る。幸い、人をハネることもなく、他の車と鉢合わせすることもなく、そこから逃げおおせた。つい1時間前のこと。
王宮(博物館)前でも、タクシーが40-50人の若者に襲われ、ボコボコにやられていた。そのときは「あぁー、やられている。お気の毒に」といった他人事のような感じだったが、いざ自分が襲われると、背筋がゾオーとし震えがきた。被害がなかったのは、運がよかっただけに過ぎない。
外人特権を認めないのは、民主主義であれば、当たり前。ストを破れば、ボコボコにされて当然だ。それがロクタントラ。外人、特に日本人は、慎重に行動すべきだろう。
この交通ゼネストがいつまで続くのか、よくわからない。今朝も、武装警官を乗せた警察車両が走り回り、各所に警官が配備され、鉄砲(ピストルではない)を構え警戒していた。準戒厳令といった感じ。けっこう怖い。
このゼネスト下、唯一、特権を享受しているのが、国連。UNマークの超豪華ランドクルーザーが歩行者、自転車、リキシャ、バイクを蹴散らし快走し、あるいは超豪華レストランの前に駐車しているのを見ると、「ご苦労様、お仕事大変ですね」とつい頭を下げてしまった。そのありがたい写真は、帰国後、ご披露する。
国連が途上国でもある程度の生活水準を維持したいという気持ちはわからないではないが、ちょっとやりすぎではないか。交通ゼネストをせざるを得ないネパール庶民の気持ちを逆なでしている。怒りの声も少なくない。第2位の国連分担金拠出国、日本の一市民としても、無駄遣いはやめてくれ、といいたくなる。このままでは、UNマーク車両も攻撃対象から外されるだろう。
今朝の交通ゼネストはかなり徹底していた。飛行機に乗り損ねる人も少なくないだろう。
(追加)交通ゼネスト時には,空港へはリキシャで行くべきだ。(2008.6.26)
[リキシャで空港へ向かう観光客写真]
A tourist takes a rickshaw to the airport on Tuesday, on the fourth day of a crippling nationwide transport strike. (Photo : Gopal Chitrakar ) ekantipur, June 26
僧院攻撃:文化大革命開始?谷川昌幸(C)
反時代的週刊紙ニュースフロント(6/16)によれば、シンドバルチョークのいくつかの僧院がマオイストにより組織的に攻撃され、すでにSetithang僧院からは尼僧50人が脱出し、カトマンズに避難した。まだ具体的なことは分からないが、寄付金の強要や脅迫のようだ。
しかし、なぜ僧院なのか? なにやらきな臭い。たしかに、仏教僧院、特にチベット系はお金持ちだ。金ぴかのおとぎの国のお城のようなゴンパがカトマンズ盆地にも多数あり、なお増加中だ。しかし、それだけでなく、どことなく中国の影がちらちらする。
折から、プラチャンダ議長の外国訪問順が注目されている。まず中国となれば、これは大事件。
また、「一つの中国」政策反対禁止と治安維持法を根拠としたチベット活動家の逮捕も継続している。
さてどうなるか? ネパール文化大革命が始まるか? (ここはネパール。そんなピューリタン的運動は、たとえ始まっても、続かないとは思うが、気にはなる。) 2008/6/21 「ばなな猫」:どこで読んでも面白い谷川昌幸(C)
ネパール関係日本語ブログで、いま一番面白いのが「ばなな猫」。飼い主のことは、全く存じ上げないが、この「猫」は、愛嬌はあるが、「犬」とは全く対照的な性格を持っている。
犬は、獰猛そうに見えて、実は忠犬ハチ公、エサをくれるご主人様に尻尾を振り、「他者」をみれば、やたらとほえ、噛み付く。「犬」には独立心も、批判的精神も、哲学もない。
それとは逆に、「猫」は孤高の貴公子、自分の信念、哲学をどのような状況でも貫き、ご主人様におもねることなど、決してしない。えさが欲しいとき、ゴロゴロのどを鳴らして擦り寄ってくるが、これは高等戦術、そうすれば飼い主が喜ぶと見抜いているからだ。猫のほうが人間より気位が高い。
そして、「猫」は、実際には、結構、勇猛果敢だ。ジャングルの独立独行の王者トラを、少々、小型化しただけ。
「ばなな猫」は、大勢順応マスコミや、後追いブログとは、まるで違う。現地からのこのような発信にはそれなりの覚悟がいるはずなのに、精神的貴族「猫」そのままに、不正を告発し続けている。
日本で読んで面白いと思っていたが、ネパールにきて読んでも、やはり面白い。これはスゴイことだ。
2008/6/20 市街戦寸前のマモン教国家ネパール谷川昌幸(C) 1.市街戦寸前 2.NSUも怖い 3.臨界寸前 4.マモン教総本山 5.マモン教国家ネパール 本気で世俗化を図るなら、このマモン教をネパールから追放すべきだろう。マモン教の奥の院、タメル租界攻撃が、いずれ始まるだろう。 2008/6/19 ゴミと聖牛谷川昌幸(C)
このテーマについては、昨年も書いたが、状況はさらに悪化し、聖牛たちのあまりの哀れさに不覚にも涙を禁じえなかった。牛を食う罰当たりなキリスト教国でさえ、牛の権利はもっと尊重されている。(少し前、アメリカで、へたり牛をフォークリフトで突付き屠殺場へ追いやろうとした従業員が、牛権侵害で囂々たる世間の非難を浴びた。かの国では、牛を殺すにも、「牛道的」に殺すことになっているのだ。人道的殺人を規定する国際人道法と同じ論理だ。) 1.ケガレとしてのゴミ
この国では、ゴミはケガレであり、忌避の対象。伝統的カースト社会では、ケガレを下送りし、最下層の人々にゴミ処理を押し付けていた。このケガレ下送りシステムが、宗教的に聖化され正当化されていたときは、町も村も清潔であった。 ところが、民主化とともに、そのケガレ下送りシステムが機能しなくなる一方、政治的混乱の長期化で新しい近代的民主的ゴミ処理システムの構築が出来ないため、カトマンズはいまやゴミだらけ。不潔・不快きわまりない。
ゴミは路上に捨てられる。いたるところで道幅の半分以上を生ゴミ、不燃ごみが占拠し、交通渋滞となる。強烈な腐敗臭の中、すし詰めバス乗客や通行人はひたすら我慢を強いられる。ケガレ観念を残したまま、それを処理する伝統的社会制度を破壊したつけが、これだ。
さらにグロテスクなのは、悪臭・汚物まみれの道路に面して、ハイカラ高級ブランド店や超豪華マンション等が続々と建設されていることだ。生ゴミ腐敗臭にまみれつつ、ブランド店で優雅にお買い物。
これは、むろん伝統的清掃人の責任ではない。これまでケガレを下送りされ、ゴミ処理を押し付けられてきた人々が、議会に代表を送り、自分たちの権利を主張し始めたのは、当然なことだ。彼らには、冷房の利いた快適なオフィスで働く特権社員と同等以上の給与が支払われて当然だ。責任は、自分たちの利己的都合で伝統的社会制度を破壊しながら、それに代わる新制度を作ろうとしない為政者たちにある。
2.階級と民族のすり替え
ここで警戒すべきは、2006年4月政変で権力を得た人々が、階級問題を民族問題にすり替える動きが見られることだ。科学的調査などしなくても、カトマンズで貧富格差が急拡大していることは明々白々だ。特権階級による搾取は激化している。 これを放置すると、困窮者の暴動、革命になるおそれがあるので、権力者たちは問題をたくみに民族問題にすり替え、不満を人為的に創られた「民族」に解消しようとしている。ネパールの被抑圧人民は、「民族」で分断されてはならない。マルクス、毛沢東は、むしろこれから彼らの導きの星となるのだ。
3.聖牛から野良牛へ
しかし、これは人間界のこと、聖牛たちはまだ、祖国が世俗国家になったこと、そして自分たちがただの家畜になったことを知らない。 あわれ聖牛たちは、過去の威厳そのままに、今日も悪臭ただよう路上ゴミの真っ只中に座り、腐敗ゴミやビニール袋を食べている。泥沼の睡蓮。人間のケガレを一身に引き受け、わが身を犠牲にして、人間を救おうとしている。神々しい、聖牛の最後の姿だ。
しかし、こんなことはいつまでも続かない。聖牛たちの訴えはいつかは罪深い人間の心にも届き、ゴミはケガレから開放され、価値中立的な廃棄物となり、近代的に処理されるようになるだろう。清掃人は、清掃局の従業員となる。
そのとき、聖牛の人間救済は完成する。聖牛はケガレたゴミを食い、人間に罪を自覚させ、ゴミ処理を近代化させる。清掃人は根深い差別から救われる。しかし、そのとき、聖牛は世俗化され、ただの野良牛となり、飼い主に引き取られ、近代的管理の下で飼育されることになるだろう。聖牛は、自らの聖性を犠牲にすることのより、人間を救済するのだ。
しかし、聖牛のこの崇高な自己犠牲により実現される世俗的近代的社会が、人間と牛たちにとって本当に生きるに値するような、意味に満ちた社会となるかどうかは、まだ分からない....。
2008/6/13 俗物競演:元国王とマスコミ谷川昌幸(C) 13日付カンチプルが,元国王に渡される車について,低俗な記事を書いている。乗用車2台,ジープ2台だとか,ジャガーやBMWではなく,「普通の」つまりトヨタやヒュンダイだとか,大衆的なひがみっぽく,せこい話しだ。 王制から共和制への大転換期に,王制に殉ずることも王者の清貧を甘受することも出来ない元国王,そして大衆根性丸出しで車の台数やメーカーを物欲しげに詮索するマスコミ――こりゃ,ダメだ。 2008/6/12 絵にならない王制廃止谷川昌幸(C) 6月11日,ギャネンドラ元国王がナラヤンヒティ王宮を退去し,王制廃止手続きは完結した。2006年5月の議会主権宣言で王政は事実上終わり,2008年5月28日の共和制宣言で形式上(名目上)の国王も廃止され,そして6月11日の王宮退去で生活としての王室もなくなった。 それにしても,お粗末な王制終焉だった。美学も遺産も教訓も何もない。張りぼてガラクタが撤去され,荒涼たる更地にされたようなもの。 ギャネンドラ氏にとって,王位は7年前にタナボタで(あるいは他の方法で)入手したものにすぎず,王者の覚悟,王位に殉ずる究極の美学は持ち合わせていなかった。国王は俗人とは本質的に違う。善良な俗人にはとうてい出来ないようなことを平然とやる美学と野蛮こそが王族,貴族の証なのだ。 ギャ元国王にもパラス元皇太子にも,その王者の資質はなかった。平々凡々と権力をチビチビ使い,俗物的贅沢におぼれ,タナボタ(?)王位を無益に浪費した。ギャ氏は,小市民的俗物だった。 それに輪をかけて低俗だったのが,知識人,マスコミ。本来なら,王制と共和制,権威と権力といった原理問題を喚起し,それぞれの意味をギリギリまで問い,理論化し,意味づけ,歴史の中に刻み込むべきはずなのに,肝心の原理問題を棚上げにし,些末な通俗的権力闘争の後追いに終始し,何とはなしの王制から共和制への無味乾燥な移行を許してしまった。ネパールに歴史はない。ただ,流れていくだけだ。 「王」や「権威」の本質を問わないから,共和制になっても,名が変わっただけで,同じような問題が起こる。 「大統領」をおくのだそうだが,その「大統領」と国王との違いは何か? その本質的な議論抜きで,プラチャンダかコイララか,文化人か女性か,などといった些末な事柄をめぐって延々と議論を続けている。誰を大統領にしようと,国の象徴たらしめるには,権威づけねばならず,超絶化,神格化は避けられない。別バージョンの国王をつくるのとどこが違うのだろうか? あまりにも大衆的,小市民的で絵にならないから,日本ではもう報道はない。全くといってよいほど無い。王制は,娯楽として消費されたのだ。消費され,排泄されるようなものは,文化ではない。
2008/6/9 アイヌ先住民族決議:ネパールから学ぶ谷川昌幸(C) 「アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議」が6月6日,衆参両院本会議で満場一致で採択された。
1.アイヌ民族弾圧の前科 アイヌ民族は北海道や東北北部に先住していた。もし彼らを先住民族と認めると,土地,資源に対する先住者の権利が認められ,日本政府には返却あるいは賠償の義務が生じる。これは大変なことだが,町村官房長官は 「アイヌの人々が日本列島の北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族であるとの認識のもと、国連宣言における関連条項を参照しつつ、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立に取り組む」(朝日6/9) と述べ,かなり踏み込んだ政府見解を示した。まだ「先住民族」の定義が不明確で,実効性に不安はあるが,この国会宣言がアイヌ民族の権利回復に決定的な重要性をもつことは確かである。 2.グローバル市民社会の前進 対人地雷禁止条約にもクラスター爆弾禁止条約にも,当初,日本政府(日本軍=自衛隊)は米政府への配慮もあり強く反対していたが,国際社会の圧力に負け,結局はそれらを認めざるをえなかった。 今回のアイヌ先住民族宣言も,昨年9月の国連における先住民族権利宣言採択の圧力によるものである。アメリカは資源利権喪失を恐れ,強硬に反対したが,国際市民社会はそれを押し切り,宣言を採択,そして日本政府もアメリカの脅しよりも国際市民社会の世論に屈したのだ。 グローバル化には,アメリカ資本主義化と途上国も含む世界市民社会化の2側面がある。当初は,アメリカ資本主義化の側面が強く出たが,少しずつ流れが変わり,もう一つの世界市民社会化の側面が目立ち始めた。日本ももはやこの後者の流れを無視することは出来ないだろう。 3.多民族・多文化ネパールから学ぶ 日本ついていえば,アイヌや沖縄の人々,あるいは私自身(丹後人)のような田舎者を,日本中央政府は弾圧し多数派文化への同化を進めてきた。いまでも,アイヌ民族(2万数千人)や沖縄住民(百数十万人)は差別され,地方(長崎県離島など)も差別されている。その反省の上に,異民族・異文化との共生の仕方を,ネパールの人々と協力し学んでいく。 ネパールは多民族・多文化であり,包摂(inclusion)・参加(participation)は避けられず,権力分有(pawer-sharing)も不可避だ。しかし,これは忘れてはならないが,日本や先進諸国がそれらを言うのと,ネパールは事情が異なる。 日本政府はすでにアイヌ民族を弾圧・搾取し尽くし,中央権力の支配は全国にあまねくおよんでいる。アイヌ民族を先住民族と認めても,日本国家の存立が危うくなるわけではない。(沖縄が民族自決を言い出すと,そうはいかないが。)また,アメリカのような世界帝国ではないから,アイヌ先住民族宣言の世界的波及を心配するにもおよばない。(本当は,世界に展開する大商社の資源権益が危なくなるのだが,そこまでは想像力がおよばない。) ネパールはそうはいかない。途上国ネパールは,つねに国家権力の確立・安定=個人の権利保障と集団の権利保障の両にらみで行かざるをえないのだ。たとえば,ある人が貧しい土地無し農民である場合,ネパール政府は,彼個人の権利保障,生活保障のために介入するか,それとも彼の属する社会集団の権利保障という形で介入すべきか? これは難しい。 実際には,二者択一ではありえない。両にらみで行かざるをえないが,私自身は,ネパールでは集団の権利よりもむしろ個人の権利の平等を優先させるべきだと思う。日本国憲法の表現を借りるなら,「健康で文化的な最低限度の生活」を平等に保障するため,中央政府が民族・文化に関わりなく介入する。これが原則であるべきだ。そう,恥ずかしながら,ネパールについては私は時代遅れの近代主義者なのだ。 包摂(inclusion)・参加(participation)・権力分有(pawer-sharing)は,近代原理がある程度確立していないところでは,必ずボス談合,権力私物化となる。社会集団の参加は,集団代表=ボスの話し合いであり,つまりは新型カーストの形成,寡頭支配となるからだ。 私たちは,そのような実情を冷静に見ながら,ネパールの多文化・多民族状況との取り組みから謙虚に学び,過去のわが罪を反省し償う一方,未来の日本のいっそうの多文化・多民族化に備えるべきだろう。 2008/6/5 中国属国化への警鐘:朝日記事谷川昌幸(C)
今日(6月5日)も朝日新聞に大きなネパール記事が出ている。連載「奔流中国21」の一つ。執筆は武石英史郎記者で,チベット国境近くのコダリまで行き,レポートしている。
それによると,いまでもコダリには中国の制服・私服の警官,公安関係者がいて,警戒している。武石記者も怪しまれ,連行されそうになった。カトマンズでも,UNHCR「チベット難民受け入れセンター」が捜索され,難民が中国に引き渡されたという。
武石記者の文章はバランスがとれており,朝日らしい堅実な記事だ。さすが本物のジャーナリストは違う。
それにしても,ネパールの対中関係は惨めだ。最低限の警察権や難民保護義務ですら放棄している。主権放棄といってよい。マオイスト政権になれば,同じ毛沢東主義,さらに対中従属が進むだろう。チベット系ばかりか,反政府少数派にとっても厳しい状況になりそうだ。
【追加】 これは杞憂ではない。今日,KB.マハラ情報大臣(マオイスト)が1週間の訪中から帰国した。訪中の主目的は,中国共産党とネパール共産党(毛派)との関係緊密化。その成果をふまえて,マハラ大臣は,中国側に,こう確約した。
「チベット問題に対する中国政府の立場をネパール共産党(毛派)は強く支持する。」
「どのような勢力によるネパール内での反中国活動をも阻止する。」
(nepalnews.com, 3, 5 Jun)
【補足】 公平のため補足すると,CIAやRAW,あるいはインド警察がネパール領内で我が物顔に振る舞っていた(いる?)ことも事実だ。
2008/6/3 共和制宣言,取消となるか?谷川昌幸(C) すでに指摘したように,先の制憲議会開会は,内閣指名26議員の指名なしに開会されたものであり,違憲である。これは,党派とは無関係の憲法原理の問題だ。ハナから,こんないい加減なことをやってはいけない。 今日の新聞によれば,ラム・クマール・オジャ弁護士が,制憲議会開会違憲訴訟を起こし,最高裁で審理されるそうだ。日本の御用最高裁でも,こんな明白な憲法違反であれば,違憲判決を出すに決まっている。権威あるネパール最高裁もきっと違憲判決を下すだろう。 そうなれば,連邦共和制宣言は,もちろん取消。また王制に戻る。 さて,暫定憲法(前文)では「法の支配」が高らかに宣言されている。議会が「満場一致」で可決した憲法だ。自分たちが決めた憲法だ。「法の支配」は「人の支配」ではない。「人民の支配」でもない。 これは見物(みもの)だ。よ~く見ていよう。 2008/6/2 制度わか~んない:街頭政治の論理と心理谷川昌幸(C) 勇敢プラチャンダ議長に「批判は許さん」とキビシク叱られたカンチプルが,またまたこんな不敬な記事を書いた(1Jun)。 それによれば,プラチャンダ議長は6月1日,もしNCとUMLがマオイスト政権成立を妨害するなら,人民をバックに街頭直接行動をすると警告した。NCとUMLの党内には「王党派感情」があるからだという。また,バブラム・バタライURPC議長も,NCとUMLの背後に外国の影があると非難し,場合によっては,再度革命をやると警告した。 (ここには「街頭政治」と「本質還元論」の2つの問題があるが,後者については,改めて別に論じる。) 変わらないなぁ。1990年代の街頭政治と,まったく何一つ変わっていない。立憲政治においては,少数派は,憲法の枠内であれば,どのような手段を使っても抵抗が許される。イギリス議会の無制限演説,日本の牛歩――これらは少数派の抵抗のための合法的手段だった。いつまでも終わらない長~い演説や牛のよだれがたら~りと垂れる無為の時間を使って頭を冷やすというわけだ。民主主義のコストでもある。 だから1/3少数決を使うのがコイララ首相であろうとプラチャンダ議長であろうと,それ自体は憲法で許されたことだ。それなのに,反対派がその制度を使うのはケシカランといって,街頭直接行動で脅すのは,近代的制度のなんたるかがまるで分かっていないからだ。(むろん街頭行動がつねにすべて悪いわけではない。) 制度とは何か。20世紀最大の思想家の一人,丸山真男は,その快著「肉体文学から肉体政治まで」において,こういっている。 “近代精神とは「フィクション」の価値と効用を信じ,これを不断に再生産する精神として現れる・・・・。そこで「フィクション」を信ずる精神の根底にあるのは,なにより人間の知性的な製作活動に,従ってまたその結果としての製作物に対して,自然的実在よりも高い価値評価を与えていく態度だといえるだろう。・・・・「つくりごと」というのは「現実にないもの」ということから遂にはフィクションにはうそというような悪い意味すら付着するが,うそとか現実とかが自然的直接的所与からの距離の程度を意味するとすれば,むしろ近代精神はうそを現実よりも尊重する精神だといってもいいだろう。実はそれがまさに媒介された現実を直接性における現実よりも高度なものと見る精神だということなのだ・・・・。”(著作集4,p.212-216,ゴシックは原文では傍点) 代議制は,丸山流にいえば,最もフィクションらしいフィクションである。だから,自分たちがつくったその制度を信じなければ,もともとうそなのだから,そんなものはたちどころに崩壊する。代議制に参加しながら,思い通り行かないからと行って,PLAやYCLをバックにすぐ直接行動で脅すのは,まさに「肉体政治」,「感情的=自然的所与に・・・・精神がかきのようにへばりついていてイマジネーションの自由な飛翔が欠けている」(p.212)といわれても仕方あるまい。 そもそも,マオイストお気に入りの民主共和制は,君主制よりもはるかに高度な制度である。君主制は,文字通り君主の肉体が支配の正統性を担保している。だから,かつては,王国においては,何人かの証人を国王の寝室に入れ,国王と王妃が確かに肉体関係を持ち,子をなしたことを確認させ,報告させたのだ。 ここではイマジネーションは不要だ。国王の男性器と王妃の女性器の肉体的=物理的結合と,射精・受精の自然的=生物的必然が,王位の正統性を保証する。君主制は肉体政治のそのものなのだ。 民主共和制ではそのような自然的=肉体的支配の正統性は原理的に認められないから,それはイマジネーションによって,つまりフィクションによって作り出されねばならない。たとえば,代議制であれば,「代表」のフィクションを信じるという行為によって,代議制は存立する。 それなのに,思い通り行かないからといって,すぐ街頭直接行動。媒介された代議制の現実よりも,街頭におけるに肉体の直接的現実を優先させる。そんな中途半端な肉体政治をやるのであれば,本物の肉体政治たる君主制の方がまだましではないか。 君主制よりもはるかに高度な代議制の連邦民主共和制をやるのであれば,うそを信じるくらいの遊び心は不可欠だ。「人民の意思」など,どこにも実在しない。 |
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