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2009/7/31 講演:ネパール平和省と日本の平和構築支援ピースウイーク2009(8月1~9日)
被爆地長崎で平和について考える「ピースウイーク2009 in NAGASAKI」(同実行委主催)の講演会、市民集会などが8月1~9日、長崎市筑後町の県教育文化会館などで開かれる。問い合わせは同実行委(電、ファクス095・822・4098)。
▽1日=被爆者、早田一男氏の講演会「私の平和行脚の軌跡」(午後2時から県教育文化会館)
▽2日=長崎大教授、谷川昌幸氏の講演会「ネパール平和省と日本の平和構築支援」(同)
▽3日=ジャーナリスト、石丸次郎氏の講演会「現場報告 北朝鮮はどうなっているのか?」(午後6時半から県教育文化会館)
▽4日=リムピース編集委員、篠崎正人氏の講演会「海上自衛隊のソマリア派遣と海賊対策」(同)
▽7日=元京大講師、小林圭二氏の講演会「“プルサーマル”行き着く先は…?」(同)
▽8日=端島・高島ピースクルーズ(午後1時から大波止ターミナルで受け付け、同1時半出発)、在韓被爆者らによる「被爆体験を語り継ぐ会」(午後6時半から県教育文化会館)
▽9日=ピースウイーク2009市民集会(午前10時から爆心地公園)、魚雷発射試験場などを巡るピースバス(午後1時に爆心地公園集合)
( 2009年7月10日長崎新聞掲載) 2009/7/30 日和見るジャー副大統領谷川昌幸(C)
せっかく「悪魔の代弁人」とまで絶賛したのに,ジャー副大統領が日和見し,ネパール語で就任宣誓をやり直しそうな雲行きになってきた。
たしかに副大統領は四面楚歌。このnepalnews.comの紙面など,実にひどいものだ。6人が顔写真付きで意見を述べているが,全部,副大統領の全面否定。たとえ形だけでも副大統領弁護を入れるべきではないか。それがメディアの見識というものだろう。
もしこれがネワール語宣誓だったら,どうなっていたか? こんな一方的なことはできなかっただろう。ジャー副首相は,連邦民主共和制の根本原理の妥当性を問いかけているわけであり,ジャーナリズムはそれに応える義務があるはずだ。
理論的に詰めた議論をしない。これは王制の時もそうであった。長い歴史を持ち,利用価値の高い王制を,まともな議論もせず,弊履のごとく捨て去ってしまった。たとえ共和制にするにせよ,王制と本気で理論的に議論はすべきだ。そうした本気の議論がないので,共和制も民主制も民族自治も,理論的に鍛えられることがない。軽~い包摂連邦民主共和制。別の風が吹けば,たちまち流され,消えてしまう。
ネパール語多数派がどうしてヒンディー語少数派を抑圧できるのか? そんなことをしてはいけない,というのが連邦民主共和国の理念だったのではないか?
ジャー副大統領は,日和見をせず,「悪魔の代弁人」となり,ネパール語多数派と徹底的に闘い,ネパール民主主義を鍛えるべきだ。それが,副大統領ジャー氏の祖国への第一の責務である。 2009/7/29 ギャネンドラ元国王インタビュー谷川昌幸(C)
「人民評論」は,共産党機関紙のような名称なのに,親国王だ。数日前までギャネンドラ元国王生誕63年祝賀を掲載していたし,27日にはかなり長いギャ氏インタビューを掲載した。
このインタビューでギャ氏は饒舌だが,発言は慎重だ。Janabhawana誌編集長が盛んに挑発するが,ギャ氏は「王制復古が必要かどうかは,すべて人民が決めることだ」と繰り返し述べている。
一方,「人民が望むことであれば,何であれ不可能なことはない」とものべ,「ナショナリスト指導者たち」の奮起を促している。きな臭いといえなくもない。
ギャ氏の評価は別として,王制そのものについては,相対的に安上がりで安全な制度であることが,ネパールでも認知されはじめたのではないか。立憲君主化をすすめ,シンボルとしてしまえば,国王は国民統合の象徴として便利な制度である。
しかし,ネパールでは王制はすでに廃止されてしまい,もはやよほどのことがない限り王制復古は難しい。権威は成立に長い年月を要するが,破壊は一瞬で足りる。ギャ氏は「人民が望めば・・・・」と未練を残しているが,いまのところその可能性はない。
そのかわり,ヤダブ大統領がますます威信を高めてきた。憲法上,議会満了まで地位はほぼ安泰だから,状況によっては,今後,大統領が首相以上に大きな権限を行使するようになるかもしれない。ジャー副大統領には権限は何もないが,大統領は,その気になれば,民選国王になれないこともないのである。 2009/7/28 子供利用の稚拙さ:政治家・陸自・サッカー谷川昌幸(C)
現代の子供利用の御三家は,政治家・陸上自衛隊・サッカーだ。子供に「無垢の天子」虚像を着せ,利用する。幼稚な子供っぽい作戦だ。
日本ではまもなく選挙突入。またまた子供を抱いたり手を引いたりしている選挙ポスターが巷にあふれるだろう。
サッカーも見苦しい。子供に手を引かれないと怖くて競技場に入れないらしい。競技自体は好きだが,子供利用の「日の丸国粋主義」サッカーは,絶対に観ないことにしている。(これと対照的なのが,ラグビー。子供はおろか,監督ですら,フィールドには入れない。立派だ。)
そして,陸上自衛隊。イラクでもネパールでも,さんざん子供を利用している。子供を利用してでも活動の正当性を何とか認めさせたい,ということらしい。
そもそも,子供は小利口で,嫉妬深く,残忍な生き物だ。子供の無垢は,田舎の純朴と同じく,単なる願望にすぎない。
政治家や自衛隊やサッカーは,実際には,悪ガキどもに魂胆を見透かされ弄ばれている,という自覚がまるでない。滑稽で,もの悲しい。 2009/7/26 ジャー副大統領,鋭敏な政治感覚谷川昌幸(C)
1.ネパールのシュミット
ジャー副大統領については,ちょうど1年前,その才に驚き,「ネパールのスウィフト」「悪魔の代理人」とまで絶賛した。
2008/07/26 悪魔の代理人,ジャー副大統領 2008/07/27 ヒンディーを公用語に:副大統領
この見立ては,やはり間違っていなかった。7月24日のヒンディー語宣誓違憲判決への副大統領のコメントも,抜群にセンスがよい。もう一声,「ネパールのシュミット!」と誉めてもよいくらいだ。
C.シュミットは,近代国家の本質を見抜き,それを逆手にとって近代国家を粉砕した。内在的批判のお手本だ。
ジャー副大統領も,暫定憲法(包括和平協定)の根本原理を使って,内在的に現体制に攻撃を仕掛けている。恐るべし。まさに「悪魔の代弁人」だ。
2.最高裁判決の弱点
ジャー副大統領は,最高裁判決への反論の根拠をいくつかあげているが,政治的にも理論的にも核心にあるのは言語権の問題である。
▼最高裁判決
「ヒンディー語による副大統領宣誓は,2007年暫定憲法第36条I(2)と補則1(A),および同憲法の精神に反しており,無効とする。」(Republica 24 Jul)
暫定憲法36条I(2)は補則1(A)に従い宣誓することを定めている。そして補則1(A)は,宣誓の書式を規定しているが,「ネパール語により」とは規定していない。ここまでであれば,ネパール語で宣誓する必要はない。
難しいのは,第5条である。
第5条 国民の言語(राष्ट्र भाषा)
(1)ネパールで母語として話されているすべての言語は,ネパールの国民の言語(राष्ट्र भाषा)である。
(2)デバナガリ表記ネパール語を公務用語(सरकारी कामकाजको भाषा )とする。
宣誓を公務(सरकारी कामकाज)とすれば,ネパール語宣誓は義務である。しかし,宣誓は内面性に深く関わるものであり,この点を尊重するならば,ネパール語使用を法的には強制できないことになる。
この解釈の妥当性は,制憲議会の議員宣誓により裏付けられる。制憲議会議員は,暫定憲法第68条により宣誓を義務づけられている。
ところが,Times of India (24 Jul)によれば,タライ選出の大臣や議員たちは,ヒンディー語で宣誓しているという。また,ジャナジャーティ選出議員たちも,それぞれの母語で宣誓しているという。記事では詳細はわからないが,相当数がネパール語以外で宣誓しているのではないか。
副大統領宣誓と議員宣誓は,まったく同じ性格のものだから,もしこの記事が正確だとすれば,宣誓はネパール語使用を義務づけられる公務(सरकारी कामकाज)ではないことになる。
さらに,最高裁判決は「暫定憲法の精神」を引き合いに出しているが,この点ではジャー副大統領の方に理がある。暫定憲法(包括和平協定)の精神は,いうまでもなく包摂民主主義であり,民族文化の尊重だ。ヒンディー語は,ネパール国家自身が公認した「国民の言語(राष्ट्र भाषा)」の一つだ。ネパール国民が,国民の言語で宣誓して,どこに不都合があるのか? ジャー副大統領の勝ち!
3.急所攻撃の冴え
もちろん,ジャー副大統領が,がんばり通せるかどうかは,微妙なところだ。タライ諸派は,副大統領支持で結集し始めた。しかし,ネパール語を母語とする多数派は,それを「インドの策謀」として弾圧しようとしている。ヤダブ大統領は,宣誓をやり直したりせず,潔く辞職せよ,と副大統領にアドバイスしている。どうなるかは予断を許さない。
しかしながら,政治的勝敗は別として,ジャー副大統領が世俗連邦共和国を,その依って立つ原理そのものによって,内在的に攻撃していることは明白だ。実に鋭く,センスがよい。
4.秀逸な政治的コメント
ジャー副大統領の発言は,したがってセンスがよく,大いに楽しめる。
「私はネパール語を話さない。ネパール語は書けない。マイティリ語,アワディ語,ボジピュリ語は話す。もし就任宣誓をもう一度求められたら,英語で宣誓するつもりだ。」(Hindustan Times, 25 Jul)
「『政治的にいうなら(politically speaking),私はネパール語がわからない。だれもネパール語で宣誓することを私に強制することはできない』と,副大統領は流暢なネパール語で語った。」(Republica, 24 Jul)
日本の政治家に,これほど機知に富んだコメントが出せる人がいるだろうか? 特に,後者の発言は,傑作といってよい。
わが麻生首相は,英語がろくにできないにもかかわらず,米大統領らに英語で語りかけ,「何が言いたいのか,よくわからないね?」と,バカにされた。政治家たるもの,「政治的に語る」場合には,たとえ外国語がわかっても,「わからない」というべきなのだ。
2009/02/01 麻生首相の「売国的」英語会談
その点,ジャー副大統領は,センスがよい。いま何が問題なのか,どこを突けば敵が一番困るかをよく知っていて,その急所をズバッと突いた。
ジャー副大統領のもくろみが成功するかどうかは,わからない。が,そんなこことは度返しで,あるいはまたワイロを取ろうがエコヒイキしようがそんなことは度返しで,ジャー副大統領の発言は楽しめる。
C.シュミットと同じく,危険だが,面白い人物だ。 2009/7/25 日の丸とヒマラヤとゾウと谷川昌幸(C)
ついに出揃いました。「日の丸・ヒマラヤ・ゾウ」の豪華三点セット完成。これでもう「ネパール国際平和協力隊」にイチャモンをつける不逞の輩はいなくなるだろう。日本国陸軍万歳!
「ネパール国際平和協力隊」は,陸上自衛隊「中央即応集団」からUNMINへ,「個人派遣」されている。この国連のような,国家のような,そしてはたまた個人のような位置づけ(派遣隊員のアイデンティティ)は,いかにもポストモダン。この団旗(団シンボル?)では,日の丸が世界の中央に君臨している。ポストモダン版「八紘一宇」をデザインしたものか?
ヒマラヤ背景に,陸自隊員の平和貢献
ゾウも陸自隊員を歓迎。チトワン? 2009/7/24 安保理,UNMIN条件付き延長を承認谷川昌幸(C)
安保理が,7月23日,ネパール政府要請(7月7日付)を受けた潘事務総長の勧告(7月14日付)に従い,UNMINの半年延長(2010年1月23日まで)を全会一致で承認した。うかつなことながら,この種の手続きがこんなギリギリになるとは,知らなかった。
興味深いのは,安保理の決議内容。プラチャンダ前首相らの活劇型政治 に相当立腹しているらしく,延長は認めたものの,イヤミたらたらの条件付きだ。決議によれば――
UNMINは暫定措置であり,いつまでも延長されると勘違いするでないゾ。ネパール政府はまじめに,ちゃんとやれ。
事務総長は,2009年10月30日までに,ネパール政府とUNMINが約束した義務をまじめに果たしているか調査し,報告を安保理に提出せよ。まじめにやらないと,UNMINはおしまいにするゾ。
このように,安保理は,かなり怒っている。あるいは,怒った振りをしている。国連政治もスゴイが,ひょっとしたらネパール政治の方が上かもしれない。ネパール政界,政治家諸氏を見ていると,こんなスゴイ練達の政治は,日本の政治家にはとても真似できないと感心する。
ネパール政治のエートスは,まじめに研究するに十分値する。 2009/7/23 UNMINの任期,半年延長谷川昌幸(C)
UNMIN(国連ネパール政治ミッション)の任期が,もう半年延期され,2010年1月23日までとなる。潘国連事務総長がネパール政府からの延長要請へのレポート(7月13日付)で国連安保理に半年延長を勧告した。
ネパール和平は,制憲議会による新憲法制定が最大の目標である。制憲議会の任期は,暫定憲法第64条により,2010年5月末まで(半年延長可能)。UNMINは,和平実現のため,少なくとも新憲法制定までは継続せざるをえないであろう。
このUNMINの任期延長には,インド以外には反対はない。UNMINのおかげでネパールには金と職がもたらされ,国連はヒマラヤをバックに絵になる平和支援活動を継続できるからだ。おまけに,他の地域のような危険はほとんどない。安全で絵になる平和支援活動。だから,期間延長は間違いない。
しかし,UNMINないし国連の平和支援活動の評価は難しい。たとえば,国連介入のおかげで,ネット情報が革命的に増えた。ネパール政府は,いまや日本政府以上に情報化されている。在ネパール国連諸機関や,NGOを含めると,膨大な量のネパール情報が日々発信されている。情報氾濫,もうお手上げだ。
こうしたネット情報発信は,スポンサー側にとっても好都合だ。援助の成果が,ヒマラヤや寺院の写真と共に美しくアレンジされ,ネット上で配布され,世界中で読まれ称賛される。絵になる国は援助のしがいがある。ネット情報発信は援助ビジネスのニュー・トレンドなのだ。
しかし,こうしたネット情報は,表面の波(ウェッブ)の下の潮流を見えにくくもする。村や町の人々の生活の実態,社会に対する人々の心情,つまり「人心」である。波乗りを楽しんでいるうちに,深層では不満が蓄積し,「人心」が荒廃している,ということであれば,これは恐ろしい。
UNMINや他の国連機関の援助活動が,ネパールの人々の生活を実際にどう変えつつあるのか。ネット情報だけでは,そこのところがよくわからない。
(注)「1年延長」→「半年延長」に訂正(7月23日)
2009/7/22 日食と衆院解散2009/7/20 国連と「正義による平和」谷川昌幸(C)
1
報道によれば,国連人権高等弁務官事務所ネパール(OHCHR-Nepal)は,「正義(裁判)による平和(Peace through Justice)」プロジェクトに着手するという。
資金200万ドル(年間)は国連ネパール平和基金(UNPFN)から支出される。この基金には,ノルウェー,英,デンマーク,カナダ,スイス,そして国連平和構築基金が拠出している。日本の名はないが,おそらく国連平和構築基金を媒介として(一種のマネーロンダリング),日本も大金を拠出しているはずだ。
UNPFNは,これまでマオイスト戦闘員資格審査,カントンメント(駐屯地)改善,選挙支援,地雷撤去を資金面で援助してきた。今度は「正義(裁判)」ということのようだ。しかし,紛争後の平和再建は,なかなか難しい。紛争中の人権侵害や他の様々な損害をどう処理するか?
2
一つは,真実和解委員会方式。「包括和平協定5.2.5」と「暫定憲法第33条(s)」に真実和解委員会規定があり,ネパールでもこの方式をとることになっている。委員会設立のための法案は2007年7月に提出されたが,委員会が設立され活動しているかどうか,今のところ情報はない。 (平和復興省組織図では「委員会設立準備中」だが,2009-10予算案には「真実和解委員会」予算割当と表明されている。どうなっているのか,よくわからない。)
もし真実和解委員会方式をとるのであれば,紛争中の加害行為は「真実」をすべて認め謝罪することにより,赦され,刑事的処罰はされないことになる。応報的処罰よりも,「真実」を明らかにし被害者と加害者が和解することが優先されるからである。
3
先日,日本人戦犯に対する中国側の処遇を綿密に取材したドキュメンタリー「認罪:中国撫順戦犯管理所の6年」を観た。テムジン制作で,NHKハイビジョン特集として放送された。なかなかの力作で,2008年度ギャラクシー賞を受賞した。この時代にはまだ「真実和解」の概念はなく,この作品も「真実和解」を掲げたものではないが,内容的には日中両当事者が「真実和解」にいたる過程の克明なドキュメントといってよいものである。
番組によると,中国人虐殺・虐待に関与した日本人たちが撫順戦犯収容所に入れられ,中国側から自己の行為を直視することを求められる。当初,収容された日本人たちは警戒心・猜疑心に駆られ心を閉ざしていたが,中国側の配慮と説得に少しずつ警戒を緩め,自分の過去の行為に目を向け,やがて自分の犯した行為を認め包み隠さず告白し始める。こうして認罪をした日本人たちに対し,中国側は罪を赦し,日本への帰還を認めた。これは,周恩来という卓越した指導者がいて,処罰を要求する強硬な世論を押さえ,真実和解のため強力に指導したからこそ実現できたことであろう。
このドキュメンタリー「認罪」を観ると,戦時の虐殺などのもたらす激しい憎しみは,加害者の処罰だけでは決して癒されないことがよくわかる。虐殺の事実を見つめることは,加害者にとって,実際には,耐え難い苦痛だ。加害者がその苦痛に耐え「事実」を認め,心から謝罪するとき,被害者側からの赦しが可能となり,真実の和解への道が開けてくる。「認罪」は,真実和解がどのようなものであるかを,歴史的事実の再現を通して見事に描き出していた。
4
国家間戦争であった日中戦争とは異なり,ネパール人民戦争は内戦であり,和平後も両当事者は同じ国内に住む。同じ村,隣近所ということさえ少なくない。したがって,現在のネパールの方が,日中戦争後よりも,真実和解委員会方式が平和再建には有効な場合がはるかに多いと考えられる。しかし,憲法に定められ,委員会設置法案も準備されたはずだが,委員会が設置され活動しているという報道は目にしない。やはり周恩来やネルソン・マンデラといった卓越した指導者がいないと,真実和解委員会による平和の実現は無理なのかもしれない。
そうしたこともあってか,今回,UNPFNは「正義(裁判)による平和」方式をとり,平和復興省を中心にそれを実施していく。紛争中の人権侵害や国際法違反を調査し,法に照らして裁き,正義を実現し,もって平和を実現する方針のようだ。
周知のように,人民戦争中には,政府側,マオイスト側に,おびただしい人権侵害,国際法違反行為があった。初期・中期の警察隊による住民虐殺ではコイララ元首相,スパイ・リンチ殺害や子供兵徴用ではプラチャンダ前首相も,尋問されざるをえない。「正義」の観点に立てば,それらを一切見逃さず徹底的に調査し,責任を明確にし,厳正に処罰しなければ,平和は再建されない。カントもいうように,「たとえ世が滅ぶとも,正義は実現されなければならない」のだ。
しかし,他方,人民戦争は内戦であり,「正義」を求めるなら,隣人いや兄弟,父子ですら告発し,裁き,処罰する覚悟が求められる。しかも,実際には「事実」は多面的であり,目を見開いて事実を検証しようとすればするほど「事実」は多面化する。正義の女神テミスは,目隠しをしていては「事実」は見えない。裁判で一つの「真実」を発見できるチャンスは,そう多くはない。その結果,多くの場合,「正義」実現の過程で,「事実」をめぐる争いが激化し,相互の憎しみが再燃,報復感情が先に立ち,悪循環となってしまう。正義の要求が次の紛争を呼び起こすことになる。
カブレパランチョーク郡裁判所のテミス(2004.10.01撮影)。目隠ししたギリシャ(ローマ)の女神が,どうしてネパールの正義を守れるのか?
5
難しいことだが,内戦という事実,敵も味方も隣人という厳しい現実を見据え,よりましな現実的な解決策をさぐるより方法はない。「正義による平和」だけでは十分ではない。それと「真実和解による平和」とを組み合わせ,一歩一歩平和に向かって前進する以外に方法はあるまい。
(参照) "UN peace project kicks off," ekantipur, Jul.18 2009/7/18 Bing,クーデター成功?谷川昌幸(C)
研修生記事を投稿したついでにアクセス情報を見たら,あっとビックリ,Bing検索を介したものが大部分。これはたいへん,一夜にしてBingクーデターが成功し,ネット世界を制圧しかねない。
Googleなどライバルは,協力し,優秀な無料OSを開発配布するなどしないと,マイクロソフト帝国が復活し,今度こそは他の参入を許さない鉄壁のネット全体主義を構築してしまうかもしれない。
■「ネパール×マオイスト」で検索。上位5タイトル Bing ・ネパール共産党統一毛沢東主義派 - Wikipedia ・ネパール:マオイストによるバンダ(ゼネスト) ・ネパール:マオイストによるバンダ(ゼネスト)及び爆発事件等 ・ネパール:マオイストによる停戦破棄声明 ・見放されたネパール国王 ・ネパール共産党統一毛沢東主義派 - Wikipedia ・Amazon.co.jp:ネパール王制解体―国王と民衆の確執が生んだマオイスト ・世界・ネパールのマオイスト ・見放されたネパール国王 ・ネパール - 海外安全ホームページ Yahoo ・ネパール評論: マオイスト ・ネパール共産党統一毛沢東主義派 - Wikipedia ・アフガン・マオイスト,ネパール・マオイストを糾弾 - Windows Live ・「憲法第9条改正問題」(PDF) ・ネパール?マオイストが議会妨害を継続【小倉清子】 ? ASIAPRESS ネパール労働者の対日輸出:ネパール労働省谷川昌幸(C)
ネパール労働省が,ネパール人労働者の対日輸出(export)促進を働きかけている。以前批判したように,これは「現代版奴隷労働」とさえいわれており,民主共和国はこのような売国的政策をとるべきではない。
Bishal Bhattarai,"Trainee export to Japan,"(ekantipur,Jul.15)によれば,ネパール労働省が日本国際研修協力機構(JITCO)と協定を締結したのが2003年12月3日。ところが,これまで日本に「輸出」できたネパール人はわずか63人。労働省のバッタライ氏は,これに不満を持ち,ネパール労働者をもっと日本に輸出せよと主張されるのだ。
いまの労働大臣はコングレスのMohammad Aftab Alam 氏。しかし,労働者「輸出」政策は,マオイスト政権の時も強力に推進されており,コングレスの「反人民性」のゆえではない。ネパール政府は一貫して労働者を商品とみなし,「輸出」促進を図ってきた。 ネパール労働省が日本の研修労働の実態を知らないはずがない。よく知っていながら,自国人民を研修生として日本に「輸出」するというのだ。
このところ,外国人研修生に限らず,日本の非正規労働は常軌を逸している。大学生向けの職場体験制度(インターンシップ)も,夏休み2ヶ月,びっちり働かされるようなものが少なくない。安上がりの補助労働だ。大学はますます企業の下請け機関となりつつある。就職には何の役にも立たない教育,世間から隔離された修道院のような大学こそ,これからは目指されるべきだ。
ネパールの労働者も日本の学生も,多少苦しくとも,資本に拝跪し「現代版奴隷労働」に甘んずるようなことは拒否すべきだろう。
(参照)2009/01/19 対日ネパール人輸出,あるいは新三角貿易 2009/7/17 Bing,クーデターか?谷川昌幸(C)
ハーバーマスの高尚かつ難解なコミュニケーション論に四苦八苦している間に,世俗世界ではネット・コミュニケーションにおけるクーデター(革命?)勃発の兆しが見え始めた。マイクロソフトBingの逆襲だ。
わがブログは,1日400回くらいの閲覧。その3/4くらいが検索サービスを介したものだ。つい数日前までは,だいたいグーグル40%,ヤフー30%,MSその他30%くらいの比率だったのに,昨日からBing経由が急増,半分くらいになった。検索クーデターだ。
ネット情報は,検索にかからなければ,固定読者以外に読まれることはほとんどない。検索サービスを制するものが,ネットを制し,世界世論を制する。
Bingクーデターは成功するか? それともWolfram Alphaなど別の勢力か? そして,それぞれの検索サービスの思想傾向ないし政治的立場は,どうなっているのか? 面白いテーマだ。
■「ネパール×政治」で検索。上位5タイトル
ヤフー: ネパール政治の基礎知識2006
Bing: ネパール政治の基礎知識2006
(参照)「検索新技術「巨人」に挑む:MSのシェア上昇傾向」朝日新聞2009.7.17 2009/7/16 ハーバーマスとポスト世俗化国家(8)谷川昌幸(C)
12.ポスト世俗化社会の信仰と知
(1)信仰と知
これは,周知の信仰(宗教)と知(哲学),善と真理,実践と認識といった二分法に基づく議論である。存在の認識をいくら科学的に究めても,当為は引き出せない。何かを為せという当為命令は,認識以外のものに由来する。それが信仰であり,あるいは文化的価値である。
ここで問題は,そのような信仰や文化的価値を,政治とどう関係づけるか,ということである。近代国家は,国家を中立化し,信仰や文化的価値を私的領域に閉じこめようとしたが,これは前述のように失敗した。それでは,というので再び信仰や文化的価値を取り出し,統治の正当性の根拠に据えてしまえば,近代以前に逆戻りすることになってしまう。21世紀の現在,そんな時代錯誤はできない。われわれは,近代化・世俗化を経験してしまったのであり,したがっていまや「ポスト世俗化」における信仰と知,宗教と政治の関係を考えざるをえないのである。
(2)ポスト世俗化国家の信仰と知
ポスト世俗化国家は,近代世俗国家と同じく世界観的には中立ではあるが,宗教や文化的価値を切り離すのではなく,それらからエネルギーや動機付けをくみ取る。
ポスト世俗化国家では,信仰を持つものと信仰を持たないものは,「見解の違いを覚悟して,それとともに生きていくのが理性的である」(p22)と考えなければならない。
「すべての市民に同じ倫理的自由を保障する世界観的に中立な国家権力というあり方は、それゆえ、世俗化されたある特定の世界観を政治的に一般化する考え方とは相容れないのである。世俗化された市民は、国家公民としての役割において公共の場で論じるときは、宗教的な世界像には原理的に見て真理のポテンシャルがないと言ってはならないのであり、また信仰を持った市民たちが公共の問題に対して彼らの宗教的な言語で議論を提供する権利を否定してはならないのである。それどころか、リベラルな文化は、宗教的な言語でなされた重要な議論を公共の誰でも分かる言語に翻訳する努力に世俗化された市民たちが参加することを、期待していいのである。」(p23-24)
ポスト世俗化国家においては,政治と宗教は二領域に分離されるのではない。宗教も公共的な問題について議論し,要求を出し,これを受け,世俗の側も議論し,それを世俗の側にも分かる議論に翻訳し,社会的合意を形成し,法制化していく。その意味では,ポスト世俗化国家は,宗教に積極的な政治参加――公共的討議への参加――を求めているのである。 そして,それは宗教だけでなく,民族など他の文化的価値についても同じことである。
13.救済する翻訳
人間の求めるあらゆる価値は,究極的には,信仰である。ハーバーマスのポスト世俗化国家は,そのような信仰を公共的議論を通して翻訳し,信仰を持つものにも信仰を持たないものにも受け入れられる公論に高め,法制化して取り入れようとする。
たとえば,「神の似姿としての人間」が「人間の尊厳」という一般的な理念に翻訳され,憲法の中に法制化される。これをハーバーマスは「宗教のカプセルに入った意味のポテンシャルが世俗化のなかで解き放たれる」(p19)と表現している。したがって,「規範意識および市民の連帯がエネルギーを汲んでいる文化的源泉のすべてと大切につきあうことは,立憲国家自身のためにもなることとなる」(p20)。
14.討議民主主義
以上,ハーバーマスの『ポスト世俗化時代における哲学と宗教』について紹介してきたが,読み進めながらの記述のため,重複や齟齬も少なくないと思う。また,彼の他の重要な諸著作をまったく参照していないので,初歩的な誤解もあるかもしれない。しかし,そうした不十分な点が多々あるにもかかわらず,拙速を恐れず書き記してきたのは,この本には重要なことが書いてある,と直感したからである。
それは,政治における文化の問題である。多文化社会化の現代において,国家は宗教や民族,言語などの文化と関わらざるをえない。国家(あるいは政治権力)は,世界観的中立を維持しつつ,それらの文化とどう関わるべきか?
ハーバーマスの討議民主主義は,宗教,民族,言語などの様々な文化集団を市民社会における自由な討議に参加させ,世論を形成し,法制化へと導いていくものである。ハーバーマスは,この自由な討議民主主義こそが参加の動機(モチベーション)を高め,支配の正当性を生み出していく,と考えた。
その意味で,ポスト世俗化国家は,政治以前の文化に依拠している。ハーバーマスは「憲法愛国心」が必要だとさえいっている。憲法の規定をたんに理解するだけでなく,「ナショナルな歴史のコンテクストに即して身につける」(p11)ことを求める。きわどい主張だが,立憲国家はそのような文化的価値による動機づけなくして存立しえない,ということであろう。
さて,そこでネパールである。現在のネパールは,近代的政教分離ではなく,ハーバーマスのいうポスト世俗化国家を目指している。それはネパールの多民族多文化社会の現実にあっているし,また世界世論のいまの潮流にも乗っている。 しかし,ハーバーマスの理論が難解とならざるをえなかったように,ネパールのポスト世俗化国家の試みも前途多難といわざるをえない。どうなるか,注目していたい。
(注)補足,訂正:2009.7.17 2009/7/15 ハーバーマスとポスト世俗化国家(7)谷川昌幸(C)
10.公的討議への参加動機
ハーバーマスは,人々の自由な民主的討議を通して相互を承認し合意を形成し,これにより統治の正当性を合理的に生み出していく,と主張する。しかし,たとえそうだとしても,人々はいったいなぜ,そのような討議に参加するのだろうか? 何のために討議するのか?
近代世俗国家では,それは個々人の自然権を守るためであった。人々は,自分の生存(ホッブス)や財産(ロック)を守るため,合意により政治社会を形成し運用する。政治参加の動機(モチベーション)は個々人の利害である。この論理は,利害が民族,階級,人民のそれになっても,基本的には同じである。人々は,それらの集団の利害のために,政治参加する。動機は明白である。
ところがハーバーマスは,先述のように,統治の正当性の根拠をそのような前政治的な実体的なものに求めることを拒否した。それでは,人々は何のために政治参加するのか? 何のために討議するのか?
問題は,まさにここにある。ハーバーマスは,そのような民主的討議に参加し,法をつくっていく市民には,統治の客体にすぎない市民よりもはるかに大きな参加の動機(モチベーション)が必要であると主張する。
「こうした国家公民は、自分たちのコミュニケーション権利および参加権をアクティヴに行使しなければならない。しかも、自己の利益を正しく理解してそれを擁護するという点に関してだけでなく、権利の行使にあたって公共の福祉を志向しなければならない。そしてこれは、相当に高度のモティベーションの投入を要求されることであるが、法によってそうしたモティベーションを強制することは不可能である。例えば、選挙に参加する法的義務というのは、連帯の指令と同じく民主的な法治国家にはなじまない。必要とあれば自分の知らない匿名の同じ市民を助けることを請け合い、公共の利益のために犠牲も覚悟するというのは、リベラルな政治的共同体の市民に受け入れてもらうには、かなり無理な要求なのである。」(p8-9)
これは,ハーバーマス自身が「かなり無理な要求」と認めているように,かなり高い参加のハードルである。自己の生命や財産を守るための政治参加であれば,誰にでも理解でき,参加の動機となる。ところが,ハーバーマスは,参加に当たっては「公共の福祉」あるいは「共通善」を志向せよ,と要求する。何のために,そんなことをしなければならないのか? ハーバーマスは,啓蒙された私益は公益とか,神の見えざる手の導きによる公益といった説明をせず,ストレートに次のように説明する。
「それゆえ政治的美徳は、たとえそれがほんの少額ずつ『要求される』場合でも、デモクラシーの存続には不可欠である。これは社会化の問題であり、また自由な政治文化の日常習慣や考え方に慣れ親しんでいるかどうかの問題である。国家公民という法的地位はシヴィル・ソサエティへといわば組み込まれているのである。そしてこのシヴィル・ソサエティは、そう言ってよければ、『政治以前の』生き生きとした源泉からそのエネルギーを得ているのである。」(p9)
あれあれ,何か変ではないか。この「政治的美徳」とは何か? ハーバーマスの説明では,「政治以前の生き生きした源泉」から市民社会がエネルギーを得て,この「政治的美徳」を人々の間に育んでいく,ということらしい。しかし,そのような「政治以前の源泉」を認めることを,彼は拒否していたのではなかったか? あるいは,彼はこうもいっている。
「デモクラシーにもとづく憲法を持つ法治国家は、自分自身の利益を考える社会市民に対して消極的自由を保障するだけではないのだ。こうした国家は、コミュニケーション的自由が躍動し、誰にとっても無視できないさまざまなテーマについて公共の論争に国家公民が参加するよう促すのである。」(p10)
同じことだが,なぜ人々は「公共の論争」に参加しなければならないのか? ここのところは,少なくともこの本だけではよく分からない。おそらく,このようなことではないか。つまり,市民社会では,「政治以前」の様々な源泉からエネルギーを得た諸集団が自由な討論を通して「公共性」を形成していく。これが,慣習化され,社会化され,いわば民主主義のエートスとなり,それが人々の参加を促すように働く。いいかえるなら,それは,国家をどのように法制化するか,どのような憲法をつくっていくか,をめぐる公的討議ということになる。
「先に『統合的な紐帯』がないと嘆かれていたが、そうした『統合的紐帯』はまさにデモクラシーのプロセスそのものなのである。つまり、共同でのみ実行可能なコミュニケーション的実践なのだ。そこでは最終的には、憲法の正しい理解をめぐって論争がたたかわされているのである。」(p10)
11.憲法愛国主義
自由な民主的議論,つまり憲法的問題をめぐる公的議論が成果として憲法を生み出しつつ,人々の間に「憲法愛国主義的愛着」(p11)を育む。これは「憲法愛国心」(p11)であって,単なる理性的憲法理解ではない。ここは微妙なところであって,また危ないところでもあるが,ハーバーマスはこう説明している。
「『憲法愛国心』については広く誤解がまかり通っているが、その本当の意味は、市民たちが、憲法の抽象的な内容を体得するというだけのことではなく、それぞれのナショナルな歴史のコンテクストに即して憲法を身につけるということなのだ。基本権の道徳的内実がメンタリティに定着するためには、知的学習過程だけでは足りない。道徳的認識と大規模な人権侵害に対する世界中で一致が見られる道徳的憤激、こうしたものだけでは、政治的に立憲化された地球社会(もしも、こうしたものがいずれ存在することになった場合に)の市民たちの統合に役立つとしても、それはあるかなきかのかすかな統合にすぎない。同家公民のあいだで、それがいかに抽象的で法によって媒介されたものであろうと、連帯が成立するためには、まずは正義の諸原則が、文化的な価値志向の濃密な網の目のなかに根づく必要があるのだ。」(p11-12)
「前政治的」なものを持ち込まないといいつつ,ここでは「文化的価値」を引き合いに出している。もちろん,何らかの「文化的価値」が憲法の基礎になるとか,国家正当性の根拠になるとは言っていない。憲法が「文化的価値」の「網の目のなかに根づく」ということ。そうすれば,「憲法愛国心」が涵養され,国家公民の「連帯」が成立するという。これはいったいどういうことであろうか? 2009/7/14 ハーバーマスとポスト世俗化国家(6)谷川昌幸(C)
9.民主的立憲国家の正当性
では,近代世俗国家の正当性危機は,どのような方法で克服されるべきか? ハーバーマスは,高らかに,こう宣言する。
「法秩序というものはデモクラシーの中で生み出される法手続のみから自己還帰的に正当化しうる。」(p7)
「デモクラシーの手続きを・・・・合法性にもとづく正当性の産出の方法と捉えるならば,『文化』によって満たさなければならないような正当性の真空状態などは考えられなくなる。」(p7)
「リベラルな国家の憲法は,必要な正当性をいわば自給自足で,つまり,宗教的および形而上学的な伝統とは無関係の,手持ちの知的立論だけでまかなえるということである。」(p8)
この議論は,近代民主主義の議論とよく似ている。国家権力の正当性は,人々が自由な民主主義的議論に参加し,そこで形成された人民自身の意思に基づき統治することにより,承認される。
また,その際,国家権力が先に存在し,これをあとから憲法で民主的に統制するということでは不十分である。憲法は,市民が民主的な方法で自ら作り出すものでなければならない。
「こうした基礎づけの戦略の準拠点は、アソシエーション的に結びついた市民が自分たちで作り相互に認めあう憲法である。ポイントは、国家権力がすでに存在していて、それを馴致するという考えではないことである。国家権力は、デモクラシーに依拠した憲法制定によってはじめて作り出されるべきものなのである。『立憲的に制定された』国家権力(国家権力が憲法によって馴致されるだけではなく)であるならば、その最内奥の核にいたるまで法制化されていて、政治権力のすみずみにまでくまなく法が浸透していることになる。第二帝政に由来する(ラバント、イェリネックからカール・シュミットにいたる)ドイツ国法学の国家意思実証主義においては、『国家』ないし『政治的なもの』に、法の及ばない人倫的基盤〔国家意思/国家理性、民族、文化などが想定されている〕という抜け穴が残されていたが、立憲国家においては、法以前の基盤から資源を汲み取っているような支配主体というものは考えられない。」(p6)
(注)アソシエーション=自由な意思に基づく結合
このように,国家をその設立から民主主義的方法で隅々まで法制化していけば,もはや正当性の根拠を神や形而上学的実体に依存する必要はなくなる。 このハーバーマスの議論は,論理的にはよく分かる。人々がこぞって自由な民主主義的議論(討議)に参加し,合意により憲法やそれに基づく諸法,諸制度をつくり運用していくのであれば,統合は合理的かつ正当なものとして承認されるであろう。
しかし,問題はそのような民主主義的議論がどのような条件の下で成立するかである。 2009/7/13 ハーバーマスとポスト世俗化国家(5)谷川昌幸(C)
8.宗教と啓蒙の限界
この近代世俗国家の危機に適切に対応するには,宗教と啓蒙(世俗理性)の限界を再確認しておかなければならない。ハーバーマスは,次のように指摘する。
(1)宗教の限界
宗教は,もともと「世界像」,「包括的教説」であり,「生活形式を全体として構造化する・・・・権威」であった。
「しかし、解釈を独占し、全面的に生活のあり方を指示することができるというこの自負を、宗教は、知が世俗化し、国家権力が中立化し、宗教の自由が一般化したなかで放棄しなければならなかった。社会の部分システムの機能分化とともに、宗教的共同体の生活も、社会環境から自らを切り離すことになる。教会のメンバーとしての役割は、社会市民としての役割とは区別されるようになる。」(p21)
宗教,たとえばキリスト教は中世の「キリスト教社会有機体(Christendom)」におけるような生活全体の秩序化は断念し,非信仰者も異教徒もいる市民社会のキリスト教会として自己を限定しなければならないのである。
(2)啓蒙理性の限界
一方,近代的理性もまた,先述したように,もはや啓蒙による無限の進歩を夢見ることはできない。 この理性の危機に対しては,しばしば「理性の回心」(p15-16)がおこる。
「理性は、自己の最内奥の根拠を反省するならば、自己の起源が他者に由来することを見いだすのであり、もしも夜郎自大の自己絶対化の袋小路にはまって理性的志向を失いたくないならば、まさにこの他者の運命的な力を理性は認めねばならないのだ、とする考えである。」(p15)
「こうした思考[理性の自己反省]にははじめのうち神学的な意図はなかったが、思考の途中で、自己の限界を理性が意識しはじめると、理性は自己を乗り越えて他者へと向かうのである。」(p16)
しかし,ハーバーマスによれば,こうした行き方は,「神学の格好の餌食」となる。理性が救いを求める他者とは,結局,形而上学的実体か,あるいは何らかの神的なものとならざるをえないからである。それをやっては,近代以前への逆戻りである。 2009/7/12 ハーバーマスとポスト世俗化国家(4)谷川昌幸(C)
7.近代化と脱政治化
ハーバーマスは,シュミットのこのような近代世俗国家批判をおそらく念頭におきつつ,近代化・世俗化の問題点を次のように指摘していく。
「社会全体の近代化が凄まじい勢いで進むならば,デモクラシーの紐帯を腐食せしめ,デモクラシー国家が法的に強制できないながらもどうしても必要とする連帯を,食いつぶしかねない・・・・。」(p12)
つまり,国家存立には,個々人の利害に還元しきれない「国家公民的連帯」が不可欠なのに,近代化・世俗化は,市民たちを「自己の利害にもとづいて行動する孤立したモナド」(p12)に変えてしまい,その「連帯」をぼろぼろに崩壊させてしまう,というのだ。
*モナド(monad)=単子。部分をもたない単純な実体。
(1)私的領域の蚕食
「市場」は,まず私的領域に浸透し,「そのつどの選好に従った成果志向型行為メカニズム」(p13)にその領域を服従させていく。私的領域は市場化され,「孤立したモナド」の利害競争の場となる。
この私的領域の市場社会化は,日本でも切実に実感されているところだ。たとえば,市場原理から切断されているべき教育ですら,競争原理,成果主義に席巻されている。文科省は日本の学校を幼稚園から大学まで「孤立したモナド」の競争の場に変えてしまった。いまや学校は,市場原理にひれ伏し,即戦力として使える人材の育成に躍起になっている。「即-戦力」とは,「即-使い捨て」を意味する。学校は,そんな使い捨て消費財の下請け製造工場ではないはずだ。
(2)国家公民の私生活中心主義
近代化=世俗化=市場化は,公的領域にも浸透し,そこを蚕食していく。
「公的な正当性が必要だった分野も収縮してくる。デモクラシーに依拠した意見形成と意思形成の機能が喪失し,いわばやる気をなくしてしまうことによって,国家公民の私生活中心主義が強まる。」(p13)
市場化は,市民を「脱政治化」していくのである。 2009/7/11 ハーバーマスとポスト世俗化国家(3)谷川昌幸(C)
5.世俗国家は自己を正当化できるか?
ハーバーマスの問題提起は,根源的であり,従って簡潔明瞭である。つまり,世俗国家は,他者に依存することなく,自己を正当化できるか? という問いである。
国家が,もしその支配の正当性の根拠を,宗教あるいは文化,民族など,政治以上に根源的と想定される何らかの「支えてくれる力」(p7)に求めざるを得ないのなら,国家は厳密には「世俗的」とはいえない。
あるいは,もし国家が何らかの「支えてくれる力」に依存するなら,憲法や法律もその正当性ないし効力(validity)を,結局は「政治以前の文化的信念」に依存することになる。この場合,憲法や法律も「世俗的」とはいえないことになる。
以前であれば,国家は安んじて正当性の根拠を神(宗教)や他の形而上学的神代替物(民族,文化,人民,階級など)に求めることができた。しかし,ハーバーマスによれば,ポストモダンの現代では,もはやそれは許されず,「民主的立憲国家の規範的基準を非宗教的かつポスト形而上学的に正当化」(p4)することを目指さざるをえないというのである。
はたして,そのようなことは可能なのであろうか?
6.世俗的中立国家の成立と崩壊:C.シュミットの場合
近代化は世俗化であり,近代世俗国家は,宗教的ないし世界観的に中立の立場をとる。この問題を最も鋭く分析したのはカール・シュミットであり,ハーバーマスもそれを下敷きにして,議論しているように思われる。シュミットは「中立化と脱政治化の時代」(1929,長尾龍一訳1973)において,次のように述べている。
「幾世紀かにわたって神学的思惟が営々として築き上げた諸概念は今や興味薄い私事と化した。一八世紀の理神論においては、神自身さえ世界の外にあり、現実生活の対立抗争に対し中立的存在となった。・・・・一九世紀にはまず君主が、続いて国家が中立的存在となり、中立的権力と中立国家という自由主義的教説において、政治神学の一章は完結した。この一章こそ、中立化過程が政治権力という決定的存在をも支配したものであり、中立化過程に古典的表現を与えたものである。」(シュミット『危機の政治理論』現代思想1,ダイヤモンド社,1973, p144)
あるいはまた,シュミットは近代国家の原型といってよいホッブスのリバイアサン(国家)の本質を,次のように鋭く摘出している。
「国家は人間の製作物であり、その素材と技師、機械と設計者が同一者、即ち人間である。かくて魂もまた人聞が人為的に製作した機械の一部品に過ぎなくなる。それ故完成品として出てくるものは巨人でなく巨大な機械である。それは人間、それによって支配され保護されている人間の此岸的・物理的生存を保障する巨大なメカニズムに他ならない。」(「ホッブズと全体主義」1937,長尾龍一訳『リヴァイアサン:近代国家の生成と挫折』福村出版,1972,p.19)
しかし,シュミットによれば,「巨大な命令機械」にして「可死の神」たるホッブズの国家(=近代国家)は,内面と外面を分離し,外面のみを支配するその中立性のゆえに,崩壊の宿命にある。
「私と公、内面的信仰と信仰の表現の区別の導入は、十八世紀に貫徹し、遂に自由主義的法治国・立憲国家に到達した。近代の「中立的」国家の発端は、新教諸派の宗教思想でなく、この不可知論に発する。憲法史的にみれば、その端緒をなしたのは、近代個人主義の思想・良心の自由および自由主義的憲法体系の構造の特徴たる個人の自由権を神学的でなく法学的に構成したことと、実体的真理の不可知性から国家権力の外的性格を正当化したことの二つであり、後者が十九・二十世紀の『中立的・不可知論的国家』の源泉をなしたのである。ホッブズは・・・・政治体系の中に内的・私的な思想と信仰の自由の留保をとりこんでいる。この留保こそ強力なレヴィアタンを内から破壊し、可死の神を仕止める死の萌芽となったのである。」(「レヴィアタン」,上掲訳書,p90-91)
「内面と外面の対立を一旦承認すれば,内面・不可視・静寂・彼岸の外面・可視・喧噪・此岸に対する優位を承認せざるをえない。」(同上,p98)
「『巨大な機械』としての国家の神話的象徴たるレヴィアタンは国家と個人的自由の区別の故に壊滅した。個人的自由を組織した諸組織がメスとなり、そのメスをもって反個人主義的諸勢力がレヴィアタンを切りきざみ、その肉を分配した。かくて可死の神は再び死んだ。」(同上,p118)
これは,世俗国家にとって,冷酷な死の告知である。啓蒙の近代を通ってきた西洋はむろんのこと,いま世俗化に着手しつつある途上国もまた,この国家の世俗化・中立化の持つ本質的問題から目を逸らすことは許されない。 2009/7/9 ハーバーマスとポスト世俗化国家(2)谷川昌幸(C)
3.ハーバーマスとラッツィンガー
この本の原題は『世俗化の弁証法――理性と宗教について』であり,理性(世俗知)と信仰をいかに対話させ相関させるかが,それぞれを代表するハーバーマスとラッツィンガーにより議論されている。
ハーバーマス(1929-)は,ドイツの哲学者でフランクフルト学派第二世代,著書に『公共性の構造転換』(1961),『コミュニケーション的行為の理論』(1981),『事実と妥当性』(1992),『他者の受容』(1996)等がある。2004年,「京都賞」受賞。リベラル左派の代表的理論家。
ヨーゼフ・ラッツィンガー(1927-)は,ドイツの神学者,大司教・枢機卿(1977-),1981年からバチカンの要職歴任,2005年4月教皇に選任され,ベネディクト16世となる。カトリック右派保守派。
この現代を代表するリベラル左派のハーバーマスと,カトリック右派のラッツィンガーが,2004年1月19日,「世俗化」について討論をした。この本は,そのときの両者の冒頭講演である。
この討論は,注目すべき出来事であった。現代を代表する哲学者と宗教指導者は,なぜ「世俗化」をめぐって討論するにいたったのか? この間の経緯については,私にはまったく知識がないので,本書「訳者解説」により,要点を紹介しておこう。
4.世俗化と市民社会
ラッツィンガーは,カトリック右派ながらも,教会の政治参画を説き,教会改革を進めた。ラテンアメリカへの布教について,彼はこう批判している。(以下,引用は「訳者解説」より)
「ひとつ前の世代ならば、ポール・クローデルがしたように、クリストファー・コロンブスを血まみれの偶像の神々から南米を解放した存在とするドラマを書くこともできた。キリスト教の人間性を通じて人類の統一へいたる道として、……描くことができた。ところが今日、南半球へのヨーロッパ人の侵入を、誰がこのように描く勇気を持っているだろうか。少なからぬ人々が、逆のほうがよかったのではないか、ヨーロッパをキリスト教から解放し、その真理信仰に依拠する支配要求から救い出すという逆のかたちがよかったのではないか、と考えている。そこまで思いつめない者でも、スペインによる土地の収奪は、暴力による抑圧の歴史、物欲と残虐の歴史としか見ることができないであろう。そして、その歴史は、多くの偉大な宣教師たちの敬虔な奉仕によっても埋め合わすことができないと思っている。……ヨーロッパはコロンブスのあの運命的なアメリカへの航海以来、拡大し、アメリカでまたしても自己を誇示した。それは、アメリカにとって、そしてヨーロッパにとって祝福だったのだろうか、呪いだったのだろうか。祝福と呪いの決算書を作り、相互に比較するのは難しいことであろう。ヨーロッパ中心主義はその馬鹿げた自信のゆえに、アフリカとアジアであまりにも多くを踏みにじり、破壊した。ヨーロッパ中心主義を繰り返すべきでないという警告は、いずれにせよ、ヨーロッパに重くのしかかっている。」(p58-59)
ラッツィンガーは,カトリック教会内部から,このような厳しい反省の下に,人権と民主主義,そして憲法を重視し,異なる立場の人々の関係をいかに構築するかを考えてきたのである。
カトリック教会は,もともと反人権的,反民主的であった。教皇庁は,ナチスと「協定」を結び,ユダヤ人虐殺を黙認してきた。戦後,ハーバーマスはそれを批判したが,カトリック教会やドイツ世論は反共主義にこり固まり,教会弁護に回った。カトリック教会は,アイヒマン,メンゲレらユダヤ人虐殺犯の国外逃亡の手助けさえしている。教会は人権や立憲主義に反対だったのである。
そのバチカンが「人権」を認めたのは,1963年の回勅「地上の平和」においてだった。一方,社会問題については,19世紀末から「人間の尊厳」を認め,そのための国家福祉政策を唱え始めていた。このカトリック社会理論は,民主主義的なものではなかったが,戦後,西ドイツ建国と,そこにおける大幅な社会参加の実現に寄与することになった。
1960年代入ると,キリスト教左派が台頭し,カトリック教会のあり方に根本的な反省を迫るようになった。1962-65年第二バチカン公会議は最終文書「人間の尊厳」により「良心の自由」,「信仰の自由」を認め,教会は国家との結合をゆるめ,「市民社会の制度」へと変化し始めた。他宗派,他宗教への敬意が表明され,貧困などへの取り組みも重視されるようになった。
カトリック教会における国家「世俗化」は,このように,国家と宗教の分離を意味し,教会は「市民社会の制度」となることを意味する。これは教会再生への道であった。国家との結びつきから解かれた教会は,それ故にかえって「市民社会の制度」として公共の議論に積極的に参加し,人権や民主主義のために政治的影響力を行使できるようになった。
「70年代以降,民主化に成功した30あまりの国々の三分の二は,カトリック信者が大多数を占める。」(p87)
「要するに宗教が、公共の世論の場における一定の役割を、しかも古典的な意味では非宗教的な問題を論じることで果たすようになっている。『宗教の脱私事化』とカサノヴァが名づける現象である。そしてこの現象は、デモクラシーの深化とともに生じてきた。こうして宗教は、時に伝統的な生活世界の擁護者の役を引き受け、時には、国家と市場の全面的浸透に対する抗議者の立場をとり、いずれの場合にも共通善を、しかも必ずしも宗教色を持たず、そのつど議論によって確認しうる共通善を基準とするようになる。」(p102)
ここにいたって,カトリック教会は「市民社会における公共性」を説くハーバーマスに接近し,対話ができるようになった。少なくともこの点では,両者の位置は,かなり近いといえる。
しかし,宗教の側の議論と,哲学の側の議論とでは,決定的に相容れない部分が残る。「訳者解説」はその点についても論究しているが,ここでは、ハーバーマスの議論を検討したあとで,改めてその問題について考えてみることにする。 |
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