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日志


2009/8/31

頑張るジャー副大統領

谷川昌幸(C)
ネパール包摂民主主義にとって,最大の難問は宗教言語である。その一つ,言語に目を着けたのが,奇才ジャー副大統領。包摂民主主義ないし民族自決原理に真っ向から挑戦し,就任宣誓をヒンディー語で敢行した。

このヒンディー語宣誓は,もくろみ通り猛烈な反発を招き,ナショナリストが最高裁に提訴,違憲判決を出させた。しかし,それでもジャー副大統領は意気軒昂,ネパール語宣誓を拒否し続けた。そこで最高裁は8月23日,7日以内にネパール語宣誓をせよ,さもなければ副大統領としての資格を有しないので職務を停止せよ,との判決を改めて出した。

今日30日が,その副大統領のネパール語宣誓期限。経過を気にしながら,帰国の途についた。

今は香港空港で乗り継ぎの時間待ち。情報不足で正確なことは言えないが,ジャー副大統領は稀代の奇才であり,この程度のことで辞任などしないのではないか? 共和国の国是に従う限り,理はジャー副大統領の側にある。頑張るつもりなら,まだまだ抵抗できる。

そもそも最高裁は,ネパール語で宣誓しなければ,ジャー氏は副大統領に選出されてはいるが宣誓していない状態なので,副大統領としての職務は実行できない,といっているに過ぎない。適正に選出されたジャー副大統領が辞任しないと頑張れば,最高裁は,積極的にやめさせることはできないのだ。

この問題については,憲法それ自体に曖昧な点がある。もし憲法理念通り諸民族の権利を認めるというのであれば,第7次改正を実施し,「母語で宣誓する」と規定せざるをえない。ジャー副大統領は,これを狙っており,政府もその方向に向かう気配を見せている。これは,連邦民主共和国の根本理念からの当然の帰結といってもよい。

しかし一方,言語は文化の核心であり,そう簡単に割り切ることもできない。もし「母語で宣誓する」とすると,たとえば将来,日本語を母語とするネパール人が大統領,副大統領,首相,議員などになった場合,その人は日本語で宣誓してもよいことになる。しかし,ネパール大統領が日本語で就任宣誓をする,というのもどこか変だ。

繰り返しになるが,連邦民主共和国の包摂民主主義を採用するなら,ジャー副大統領の主張の方に理がある。もし副大統領の主張を認めないのであれば,連邦共和国の包摂民主主義ないし民族自決原理の再検討が必要になるだろう。
2009/8/30

文化破壊のネパール激安CD

谷川昌幸(C)
デジタル化は便利だが,音楽や映画などの文化を破壊する恐れがある。
 
複製生産がごく簡単なCDやDVDは,著作権さえ気にしなければ,50円でも儲かる。事実,ネパールではそんなCDやDVDが巷にあふれている。オムマニペニフンでもアカデミー賞受賞映画でも,50~100円で買える。これでは,いくら値段は関係ないといっても,有難味がない。気軽に消費し飽きたらポイ捨てとならざるをえない。
 
また,デジタル化は,たとえば音楽を通して表現される世界観を変えてしまう。ネパール(南アジア)音楽には,明確な始まりと終わりがない。人々が集まってきたら適当に始まり,いなくなれば適当に終わる。これは,明確な始まりと終わりをもつ西洋近代音楽とは全く異なる音楽である。
 
ネパール音楽のこの特性は,便宜上そうなったというよりは,世界観によりそうなっているといってよい。この世界は,明確な始まりと終わりをもつ閉ざされた世界ではなく,無限に向かって開かれているという思想である。
 
ところが,レコードやCDができると,技術的に明確な始まりと終わりが必要になり,そして事実,そのようなものとしてネパール音楽も録音されCDとして発売されるようになった。これは西洋的世界観への屈服である。
 
さらにCD化されると,生活音楽に付き物の雑音が消されてしまう。レコードはまだ針の音がして生活へのつながりを意識させられたが,CDともなると,雑音はほぼ完全に消されている。生活音から切り離された純粋な鑑賞音楽としてのネパール音楽。ネパール音楽の猥雑な豊かさの喪失である。
 
激安CDは,音楽を単なる消費商品としつつ,しかし,それにもかかわらず,それを生活実感から遠ざけていく。CDなど無い方が,ネパール音楽の豊かさは維持されるのではないか?

 50ルピーCD&DVD

露天商
 
街角の駄菓子屋さん
 


2009/8/29

人民市場はブルジョアばかり

谷川昌幸(C)
「連邦民主共和国」を実現し,次は「人民民主共和国」への革命的移行を目指しているネパール「人民」に敬意を表し,昨日は,「人民市場(人民広場、People's Plaza)」ビルを見学した。
 
「人民市場」は,ニューロードとビムセンタワーの中間にあり,たしか共和国成立前後に開業した。間口は狭いが,奥行きは深く,かなりの面積がある。
 
 テナントは,衣料,皮革,家電などで,「人民」には縁遠い品物ばかり。地下駐車場を備えており,ブルジョア自家用車族がターゲットらしい。
 
しかし,この「人民市場」は,「人民」に遠慮したのか,プチブル的で,いかにも中途半端。エスカレーターは登りだけ,下りは大回りしながら歩かされる。
 
いまラトナ公園外周通り沿いに超高級ビルがいくつも建設中。これらが開業すれば,ブルジョア顧客はそちらに移り,「人民市場」は「人民」のための雑然とした雑居ビルとなるだろう。投資はもちろん回収できない。
 
カトマンズのバブル経済はすさまじい。銀行が続々開業し,競って貸し込んでいる。プチブルも,投資目的不動産を住宅ローンで買いまくっている。こんなことはもつはずがない。
 
ネパール・バブル経済が破綻するとき,いよいよマオイストの出番だ。いや,むしろ軍クーデターの可能性の方が高いかもしれない。
 
「人民市場」ビル正面
 
 
最上階レストラン
 
最上階からの展望(ビムセンタワー方面)
 
「人民市場」前大通りの人民
2009/8/28

ネット屋さんから無線LANへ

谷川昌幸(C)
タメルのインターネット屋さんが廃業の瀬戸際に立たされている。昨年,いや今年3月ですら満員御礼だったのに,いまやどの店も閑散としている。最新パソコンを競って導入したというのに,これでは投資の回収もおぼつかない。
 
激変の原因は,無線LAN。喫茶カルディアが先鞭をつけたが,これがあっという間に急拡大,いまではタメルではどこでも使い放題。ホテルロビーだと,全くの無料だ。だから,カルディアですら,客は少ない。(タメルでパソコンを使うと,あちこちの無線LAN局電波を受信する。パスワードを聞いておけば,道端でネットができるわけだ。)
 
ネパールは,日本の何倍も変化が早い。少なくとも,ITのいくつかの分野などでは,日本を追い抜きつつあるのではないか?
 
インターネット宣伝
 
最新パソコン設置にもかかわらず,客は少ない。
 
老舗ネット屋さんだが、少し旧式
 
無線LANの先駆け「カルディア」
 
同上の3軒となり
 
カトマンズゲストハウス筋向い
 
2009/8/27

「平和復興省」訪問

谷川昌幸(C)
8月26日,マオイスト戦闘員の和平協定違反事件(武器を持ち駐屯地から集団外出)で緊張感高まる中、渦中の「平和復興省」を訪問し,ラカム・チェムジョン大臣,アルジュン・ライ事務局長と会見した。
 
平和復興省など主な官庁があるシンハダーバーは,人民戦争激化以前は,自由に出入りできたが,いまは厳重な入域規制がなされ,あらかじめ許可を取らないと入れない。
 
市民にとって不便きわまりないが,官僚たちにとっては必ずしもそうではないようだ。シンハダーバーはいまや聖域となり,内部はブラックボックスとなりつつある。以前は,様々な集団や個人が陳情や抗議に訪れ,その限りで権力は監視されていた。ところが,いまは掃除が行き届きエアコンが利いた快適な聖域内で、役人たちが特権を享受しはじめているように見える。
 
平和復興省は,以前どこかの省が使用していたビルを一棟譲り受け,使用している。国連平和基金,ネパール平和基金を扱い,いまや花形新興官庁。
 
「平和」は,以前は「戦争がない状態」と消極的(negative)に規定され,仕事は軍事にほぼ限定されていた。これは国防省の仕事である。ところが,いまでは「平和」は「構造的暴力がない状態」と規定され,これは基本的人権が保障された積極的(positive)な状態である。平和復興省は,その「平和」を任務とし,国連支援も受け,巨大化しつつある。26日も,UNMIN幹部たちが来ていた。
 
平和復興省では,チェムジョン大臣、ライ事務局長と会見した。30分程度だったので,話しは概略的なものにとどまった。
 
日本は,平和復興省の「平和基金」に関する限り,直接的拠出はごく少ない。なぜなのか,理由は不明。
 
日本政府は25日閣議で、陸自隊員6名のUNMIN派兵をまた半年延長し、2010年3月末までとした。ネパール平和構築には,こうした軍事的支援よりも,平和基金にもっと拠出し,使途を厳重に監視しつつ,人権回復・社会復興に協力した方がより効果的だと思うのだが,いかがであろうか。
 
チェムジョン大臣と会見(大臣室)
 
平和復興省ビル
2009/8/26

アメリカンクラブと市民マラソンと消された日本

谷川昌幸(C)
アメリカンクラブはカトマンズで最も危険な場所。監視カメラと武装兵士が常時厳戒態勢。うっかり写真でも撮ろうものなら逮捕されるし,挙動不審だと射殺されかねない。
 
アメリカンクラブの正体は不明。スポーツ施設があるということだが,それだけではこんな厳戒態勢は不要だ。スポーツを口実に,何かよからぬことをたくらんでいるに違いない。
 
このアメリカンクラブの向かい,タメル側に巨大な市民マラソン広告が出ている。この国でも中産階級が増え,スポーツがビジネスになり始めたようだ。こちらは商売がらみとはいえ,平和そのもの。お向かいのアメリカンクラブとは対照的だ。
 
ちなみに,この交差点の信号システムは日本援助。マラソン広告の下方,歩道脇に,日本援助の看板が設置されていた。それが撤去されてしまった。実に見事に,日本の痕跡が跡形もなく消されている(「跡形もなく」は事実誤認につき「あらかた」と訂正。 [訂正]信号機援助と「消された日本」2009/09/08)。
 
こんなことをしたのはいったい誰だろう? ひょっとすると,スポーツを悪用しているらしいお向かいさん? まさか,そんなことはあるまいが・・・・・。
 
非軍事的平和貢献の象徴としての日本の信号機援助――たしかに目障りではある。
 
日本援助の信号機(ここにも日本援助の表示があったはず)。向かいはアメリカンクラブ。銃を構え厳戒態勢(タメル側より望遠撮影)
 
信号機と広告(文部省前より撮影)
 
カトマンズ・マラソン広告
 
信号コントロール機。この付近にも日本援助の看板が設置されていたはず。
 
(注)表現一部修正2009.9.9 
2009/8/25

「ネパールの国益と国家安全保障」セミナー

谷川昌幸(C)
8月21日,セミナーに招待された。きな臭い感じがしたが,「何でも見てやれ」と,参加することにした。
 
テーマ:ネパールの国益と国家安全保障
主 催:サンガム研究所
日 時:8月21日 9:00-17:00
会 場:ソルティ・クラウン・プラザ(ソルティ・ホテル)
 
1.不可解な招待状
このセミナーについて,直感的にきな臭いと感じたのは,何と行ってもセミナ・テーマ。いまどき「国益」や「国家(国民)安全保障」を掲げセミナーを開催すれば,当然,その筋の息のかかったセミナーと考えざるをえない。
 
第二に,会場が,某元国王所有の超豪華ホテル。そこの豪華会場を一日借りきってセミナーを開く。当然,昼食も豪華メニュー。これが全部タダ。タダ飯は,どの国でも高くつくのが相場だ。
 
第三に,招待状には,セミナーのテーマだけで,プログラム内容の記載が全くない。誰が何を話すのか,何をするのか,見当もつかない。
 
これだけ条件が揃えば,どこか怪しいなと感じて当然だが,それでも好奇心に駆られ,出かけていった。
 
2.サンガム政策・戦略研究所
主催者の「サンガム政策・戦略研究所(Sangam Institute for Policy Analysis and Strategic Studies)」は,パンフレットによれば,「国民(nation)」の維持・強化を目的とする「非政治的・非党派的組織」であるが,「国民」「国益」を掲げているのだから,当然,ナショナリスト組織と見てよいであろう。
 
またSangamはサンスクリットであり「合流」の意だが,シンボルマークはヒンドゥー教のトリスリそっくり。実際はどうか分からないが,ヒンドゥー・ナショナリズムを連想させることはたしかだ。
 
3.プログラム
セミナーのプログラムは,当日,入場の時に配布された。主な内容は次の通り。
 
First Session Chair: Hon. Kamal Thapa
National Interest and National Security -- Prof. Susil R. Pandey
Where media, public, interest groups and national interest meet -- Prof. Parsuram Kharel
National interest and development paradigm of Nepal -- Dr. Shankar Pd. Sharma
 
Second Session Chair: Amb. Keshav Raj Jha
Civil-Military relations in a Democratic Transition -- General(Retd.) Keshar Bahadur Bhandari
Conflict, security and its impact in Nepali Society -- Dr. Saubhagya Shaha
 
前半の司会が,カマル・タパ氏。これだけで,サンガム研究所の基本姿勢は明らかだ。しかし,カマル・タパ氏の話しそのものは明晰であり,彼が優れた知識人であることは間違いない。
 
また,右派ナショナリスト的傾向の強いセミナーであるにもかかわらず,マオイスト議員も何人か参加していた。このへんが,ネパールの面白いところである。
 
4.ナショナリズムと国益
セミナーの発表は,いずれも「アカデミック」であり,イデオロギーをもろに出すような下品なものではなかった。その意味では面白さに欠けるが,それでも配布原稿を見ると,興味深い発言がいくつか見られる。
 
(1)プリトビナラヤン国王の評価
報告者たちはナショナリストであり,プリトビナラヤン国王によるネパール統一を高く評価する。
 
「今日,われわれすべてがネパール人であると誇れるのは,プリトビナラヤン・シャハ国王がネパールを単一の存在として統一するという理念をもち努力したからだ。」(K.B.Bhandari, p12)
 
「プリトビナラヤン・シャハ国王は,戦略家国王だ。彼の国家統一後の地政学的認識は,ネパールが国際関係において果たすべき役割や,ネパールが二大隣国との関係においてバランス政策を採るべき理由をはっきりと見抜いていた。」(S. Pandey, p44)
 
右派ナショナリストの原点は,何といっても,プリトビナラヤン国王のネパール国家統一なのだ。(左派ナショナリストの原点は,いったい何なのだろう? さっぱり分からない。)
 
(2)エリート主義的現実主義
このセミナーの報告者はみなエリートであり,当然,現実主義の立場に立っている。たとえば,国軍元幹部K.B.バンダリ氏は,「文民優位(civilian supremacy)」について,こう批判している。
 
「文民優位をいうと,人民主権(people sovereignty)や公の優位(public supremacy)が失われる恐れがある。」(p1)
 
そして,こう国軍を擁護する。
 
「現在の国軍将兵は教育も経験もあり,世情に敏感で理解力も責任感もあり,ネパールのよき市民である。」(p16)
 
たしかに,少なくとも国軍エリート層は,ネパール有数のインテリ集団といってよい。そのエリート主義の立場から,彼は「civil」と「public」を区別し,「文民優位」を批判する。
 
「文民優位の名により,公の自由(public freedom)を奪う権利はあるのか。それは,公の優位を犠牲にして,文民優位を押し通す試みではないのか? ....文民優位のエートスを理解せずに,党利党略に利用するなら,それは有害なものとなるであろう。」(p17)
 
ちょっと分かりにくいが,彼は「文民優位」そのものを否定しているわけではない。現状では,「文民優位」をいうと,それは政党(文民)に利用され,国軍を党利党略のため動員されかねない,と警告しているのだ。これは,もっともな批判である。
 
5.セミナー文化
サンガム・セミナーは,当初の想像以上に学術的なものであり,参加者はみな紳士であった。
 
それはそれで結構なのだが,このセミナーに限らず,一般にネパールのセミナーは主催者,報告者,出席者ともみな場慣れしていて,それだけに現実社会から浮いている感じは否めない。
 
セミナーが「文化」となり「産業」となっているのではないか? 外国スポンサーも,イザという時のための人脈づくりの必要経費と割り切って,セミナー支援を続けているのではないか? ネパールで立派なセミナーに出るたびに,そんな気がしてならない。
 
 
サンガム研究所シンボルマーク
 
 
 司会者カマル・タパ氏(中央)
ソルティホテル・クラウンプラザ
2009/8/24

重労働か失業か

谷川昌幸(C)
この写真は,ビルの建設現場。いま4階部分のコンクリート打ち込み中だ。
 
平地の砂利置き場からコンクリートミキサーでは,一人一人,大きなドッコに一杯砂利を入れ,運ぶ。いかにも重そうだ。コンクリートミキサーから4階までは,ザルのような容器に生コンを入れ手渡しリレーで運びあげる。かなりのスピードで,これも重労働だ。
 
この現場では,いま男性32人,女性3人が働いている。晴れれば酷暑。過酷な労働だ。
 
しかし,ここで心配になったのは,むしろこの重労働からの解放。日本だと,このような建設作業は機械化されており,おそらく数人で済むだろう。経済的にも,機械化した方が作業が早く済み,安上がりとなる。したがって,ネパールでも建設作業の機械化は加速度的に進むだろう。
 
もしそうなると,この現場だと。約30人が不要となる。これは,以前指摘した農業の機械化と同じ構図だ。(参照:タルーと人食いコンバイン
 
機械化・合理化は,人々を重労働から解放するが,解放された人々は失業してしまう。大量の失業者が,これから様々な労働現場で次々に発生することは避けられない。
 
新しい産業の育成ができたらよいが,もしそうでなければ,失業者たちはこれから先,どうしたらよいのか? やはり,失業者ゼロの社会主義・共産主義しかないのか? これは大変な難問である。
 
ビル建設現場
 
 超高級マンション広告。重労働で建設されているのだろう。
2009/8/23

性の世俗化と商品化

谷川昌幸(C)
近代化は,M.ウェーバーがいうように脱魔術化(脱神秘化)であり,世俗化である。性も例外ではない。政治が近代化され世俗化されれば,性も近代化され,脱神秘化・世俗化されざるをえない。
 
1.性の伝統的規制
ネパールは,性力派や寺院の男女合体像に見られるように,決して性を隠蔽してきたわけではない。パシュパティナートなど,シバ寺院のご神体は男根だし,町のあちこちに,いや小学校の校門脇にさえ,男女性器合体像が祭られている。美術館にも,露骨な性交図が麗々しく陳列されており,目のやり場に困るほどだ。
 
しかし,周知のように,これらは豊穣祈願であり,決して性的放縦を意味しない。性は聖であり,宗教規範により厳しく規制されてきた。性と生は神の領域であったのである。(聖と穢れは紙一重。タブーを破れば,一転して,聖は穢れとなる。)
 
2.性の世俗化
ところが,ネパール政治の近代化・世俗化により,ネパールの性と生も神の領域から人為的操作が可能な人間の領域に引き下ろされた。もはや性は恐ろしいタブーでも神の神秘でもない。それは,人間が自分の意志により技術的に操作しうる生物学的行為となったのである。
 
その一方,近代化・世俗化は資本主義化でもあり,これは万物の商品化を意味する。ネパールでも,性は世俗化とともに商品化され,市場で取り引きされるようになってきた。(伝統的職業売春は単なる市場商品ではない。)
 
先進国の場合,近代化は多かれ少なかれ漸進的であり,その間に,伝統的道徳にかわる近代的道徳が育ち,性の商品化に一定の歯止めを掛けてきた。
 
ところが,ネパールの近代化は急激であり,近代的規範が育つ以前に,伝統的道徳規範が崩壊してしまった。
 
3.性の商品化
たとえば,タメルでは先日述べたように,怪しげなダンスバーなどが激増し,最近では他の市街地にも進出しはじめた。
 
これに対し,かつてマオイストが規制に着手したが,幹部の右傾化でたちまち頓挫してしまった。プラチャンダ議長自身,官邸に「豪華巨大ベッド」を持ち込むていたらくだから,しめしがつかない。この調子では,今年のミスコンは実施されるだろう。
 
4.コンドームと避妊ピルの大宣伝
性が世俗化されれば,個人は私的目的で,企業は営利のために,政府は統治目的で,性を操作し利用しようとする。
 
先進国の場合,近代的道徳規範が働き,たとえば赤裸々な性の商品化はインターネットなど特殊な場所に限定される。ところが,ここネパールでは,そんな遠慮は無用,白昼堂々,性関連商品の大宣伝が繰り広げられている。
 
見よ,この巨大宣伝を! これはバグバザールのラトナパーク側出口の交差点陸橋だ。陸橋西側にはコンドームの宣伝,反対の東側には避妊ピル(堕胎薬?)の宣伝が出ている。
 
この交差点付近はカトマンズ有数の繁華街。パドマカンヤ女子大学など多くの学校があり,バスパーク,イスラム教寺院もあり,いつも多くの人出でにぎわっている。そのど真ん中に,性操作商品の大宣伝がある。
 
しかも罰当たりにも,この巨大性商品広告の真下には,ヒンドゥー教のありがたいお告げが掲示されている。性を聖とするヒンドゥー教を踏みつけ,営利企業が性操作商品の大宣伝をしている。エイズ予防,性病予防の建前すらない。
 
5.末世の性
世も末だ。性の操作生の操作であり,人が神になることである。
 
神の目から隠れ,こそこそやるのなら,まだ救われる。女性解放の闘士たちでさえ,裸で歩き回ったわけではない。性は隠されることをもって本質とする。性が完全にオープンになり,生が完全に操作できるようになるとき,それは人間としての性と生が消滅するときである。
 
天をも恐れぬコンドーム宣伝は,もちろん道徳番外地タメルの入口にもある。
 
 タメルのダンスバー
 
コンドームの宣伝(陸橋西側),右下の壁面掲示はヒンドゥー教のお告げ
 
 同上
 
避妊ピルの宣伝(陸橋東側)
 
 同上
 
日常生活と性宣伝(バグバザール歩道より)
 
 タメル入口のコンドーム宣伝 
2009/8/21

ヒマラヤ・マラソンの非政治的政治性

谷川昌幸(C)
ミキ・ウプレティ氏の記事「私に何ができるか?」が,今週のネパリタイムズ(#464)に掲載されている。見開き2ページで,氷河湖パノラマ写真付きの豪快な記事だ。
 
ヒマラヤでは,地球温暖化で氷河が溶け,氷河湖が拡大,決壊の危機にある。これに私たちはどう対応すべきか?
 
素人考えでは,対症療法としては,氷河湖の堰を切開して放水路を造り,水位を下げること。そして,それと並行して警報システムをつくり,万が一の決壊の際の被害を可能な限り防止すること。
 
根本的対策としては,もし温暖化が人為的なものだとするなら,原因物質の大半を放出している先進国と新興大国に働きかけ,その放出を削減させること。
 
氷河融解への対策は,おそらくこのようなものであり,やるべきことは分かっているが,いずれの対策にせよ莫大な金がかかる。だから,分かってはいるが,実際には対策は遅々として進まない。こうした現状に対し,記事は決壊危機の現場でのマラソンを通して「私に何ができるのか?」と問いかけているのだ。
 
この氷河湖問題にせよマオイスト問題にせよ,いまや地域問題も世界的に考えざるをえなくなっている。そうしたとき,マラソンなどスポーツは,問題の所在を世界に知らせ,立場の違いを超えて行動させるよい契機となる。
 
スポーツそれ自体は非政治的なものである。非政治的なスポーツは,非政治性に徹することにより,政治的・経済的・文化的対立で二進も三進もいかなくなった難問の解決の糸口となることがある。
 
このスポーツの非政治的政治性は,古代ギリシャ以来,問題解決に行き詰まったとき,人類の叡知として思い起こされてきたものである。
 
(Nepali Times, #464) 
2009/8/20

限界都市カトマンズ

谷川昌幸(C)
人口減少で存続困難となった村を「限界村落」というなら,虚栄と退廃で存続困難になった都市は「限界都市」というべきだろう。いまのカトマンズは,まさにその「限界都市」だ。
 
昨日,所用でタメル→サネパ(パタン)→キルティプール→タメルと,タクシー(スズキ車)で移動したが,いたるところで大渋滞,道路の許容能力をはるかに超えている。
 
それにもかかわらず,これまたいたるところで豪華ショッピングセンター,高級マンション,分譲住宅の建設ラッシュ。すさまじい不動産投機だ。土地持ち,小金持ちは投機で大儲けしているだろうが,このバブルはいつまで続くのだろうか? バブル破裂は間違いなく,その時の悲惨は想像を絶するものとなろう。
 
その一方,かつての外人租界タメルも様変わり。いまやネパール有産階級の歓楽街となっている。夜ともなると,タメルは道徳無法地帯となり,小心外国人は恐ろしくてホテルから出られない。
 
今回,特に衝撃的だったのは,そこかしこにたむろし,夜通しで奇声を発したりバイクを乗り回している青少年の群れ。翌朝,買い物に出ると,店先のスペースに十数人の路上生活青少年たちが身を寄せ合い眠り込んでいた。夜通し奇声を上げ騒いでいたのは,おそらく彼らであろう。これは祭の無礼講ではない。社会秩序そのものへの反逆である。バイク乗り回し青年もそうだが,特に路上生活青少年たちはいわば「剥き出しの生」であり,その存在そのものが狂乱資本主義都市カトマンズへの根源的異議申し立てであるといってよい。
 
タメルではいま,路上生活青少年たちが,白昼堂々,シンナーを吸いながら歩き回っている。誰も気にしない。これが限界都市カトマンズの現状だ。革命より自壊の可能性の方が,はるかに高い。
 
街中建設ラッシュ
2009/8/19

機能的で快適な香港国際空港

谷川昌幸(C)
香港国際空港は,機能的で快適な空港だ。外光を最大限取り入れ,明るい。エコと機能の両立。好ましい。
 
空港内には,いたるところに柔らかいソファーが配置されており,4,5時間の時間待ちでも苦にならない。インターネットは無料で使い放題だし,レストランも大衆食堂風。これで,植民地遺制的ブランド店がなくなれば,もっと使いやすい日常的な庶民の空港となるだろう。
 
面白いのはトイレ。どうしても後回しとなり,器材にも掲示にもアジア的雰囲気がのこっている。この写真はトイレ個室内。「禁煙」「トイレを清潔に」「床での転倒注意」「貴重品から目を離さないように」「忘れ物注意」等々,いかにもアジア的だ。 欧米以上に近代化が進んだ部分と,アジア的パターナリズムの残存との対比が興味深い。
 
男性トイレ個室内の注意書き
 
 機能的な空港
 
 
無料インターネット  
 
庶民むけ食堂
 
快適なソファー 
2009/8/13

マオイスト諸君,ミスコンを粉砕せよ

谷川昌幸(C)
離島出張,平和集会参加でちょっと目を離したすきにネパール・ニュースが山積,本当に忙しい国だ。ジャー副大統領ヒンディー語宣誓問題も重要だが,まず論評すべきはやはりミスコンだ。
 
昨年のミスコンはマオイスト同志の抗議によりまともに開催できなかった。今年は,おそらくマオイスト軟弱化と見て,開催に踏み切ったのだろう。
 
ミスコン応募条件
(1)未婚のネパール国民 ==既婚差別(処女検査の有無不明)
(2)19~25歳 ==年齢差別
(3)10+2以上の学歴 ==学歴差別
(4)身長162.6㎝以上 ==体型差別
(5)魅力的な健康で道徳的な女性 ==健康差別
 
愚劣きわまりない。奴隷市場で,よく働き子供をたくさん産む女を品定めするのと,どこが異なるのか。マオイスト同志よ,こんな女性差別,女性蔑視,女性商品化を許してはならない。党是にかけて,断固粉砕すべし。
 
   
ミスネパール2009募集広告/ミスネパール2007/ミスネパール2008応募者
 
(参照)
2009/8/12

オバマジョリティとObamajority

谷川昌幸(C)
先日,広島・長崎「平和宣言」を批判したら,日刊ベリタなどが紹介したためか,非難の雨霰,防戦一方だ。しかし,どう考えても,「オバマジョリティ」は変だ。(参照:広島・長崎「平和宣言」批判
 
1.ナガサキアピールとオバマジョリティ
このオバマジョリティについては,平和市長会議(7-10日,長崎)でもフランスの市長から反対意見が出たそうだ。いかにも一言居士,フランスらしい。会場からも反対意見賛同の拍手があったが,長崎市長はそのまま「ナガサキアピール」を採択してしまった。要旨によれば,次の通り。
 
「オバマ大統領は『世界中の人々が恐怖のない生活を送る権利を求めて共にたたかう』よう呼び掛けた。私たちの答えは,『もちろん,皆で協力し合えば核兵器を廃絶できる』だ。加盟都市は,核の脅威からの解放を求める世界の大多数の国々や人々を指す『オバマジョリティー(Obamajority)』という言葉を採択している。」(朝日,8月12日)
 
2.オバマジョリティは米民主党用語?
ここで不思議でならないのは,オバマジョリティ(Obamajority)という用語の由来。新聞では,「オバマ大統領と核廃絶を望む多数派(マジョリティー)市民の連携を願って秋葉市長が提唱した造語」(朝日,8月12日)とされ,他でもそのように説明されているが,本当にそうなのか?
 
私は,英語帝国主義粉砕を叫ぶ保守主義者で,敵性言語英語,特に米語については知識はまるでないが,それでも,こんな単純な造語は,当然,アメリカ人が先につくり,流通させているはずだと思い,インターネットを見たら,無数に出てきた。
 
2-1.新語辞典の定義
Obamajority:  noun, The new (but no longer "silent") majority of Americans, who will be sweeping the polls TODAY! (Addictionary)
 
この定義は未来形なので,米大統領選以前に,すでにオバマジョリティは民主党用語として流通していたことがわかる。
 
2-2.ActBlue
ActBlueは,米民主党の政治資金団体で,2004年設立。ここが下図のように,「The New Obamajority」というネット献金団体をつくり,活動してきた。オバマジョリティとは,即物的にいえば,米民主党政治献金キャンペーンなのだ。
 
 
――オバマジョリティは,やはり広島市長の造語ではないのではないか? それとも,幼児レベルの英語能力しかない私の思い違いにすぎないのだろうか?
 
3.米語圏からの嘲笑
日本のこのようなカタカナ米語については,さっそく米語圏からの皮肉な冷笑が浴びせられている。
 
"What's a Obamajority"  by NERVUN,  Wed Aug 05, 2009
The 64th anniversary of the bombing of Hiroshima was today and once again, the mayor of Hiroshima called on the world to destroy all nukes. This year, thanks to President Obama's speech last April in Prague and the hope that he will be the first sitting president to visit Hiroshima, President Obama was mentioned in the speech numorus times (Inlcuding, yes, 'Yes, we can' because those now seem to be the only English words every Japanese knows). However, in the speech, the mayor said that the great global majority calling for the end of nuclear weapons is the Obamajority. (http://forum.nationstates.net/viewtopic.php?f=20&t=10989&start=0)
 
著者のNERVUN氏は,長野県在住の高校英語アシスタント。おそらく各県に配置されている英米語圏出身の英語補助教員の方であろう。
 
「オバマ大統領が(広島市長)宣言の中には何回も出てきた(そう,あの『イエス・ウイ・キャン』までも含めて。というのも,日本人が誰でも知っている英語はいまやこれらだけのようだからだ)」。
 
著者は,英語がほとんどできない日本人英語教師たちと悪戦苦闘しつつ(これは著者自身の説明),それでも英語補助教員として日本人高校生のために英語を教えて下さっているらしい。
 
その,おそらく米国人であろう英語補助教員から見て,広島「平和宣言」は,この程度のものなのだ。
 
4.カタカナ英語の怖さ
広島市長や長崎市長は「オバマジョリティ」と「Obamajority」は同じと思っているかもしれないが,「オバマジョリティ」は日本語であって米語ではない。
 
アメリカ幼児以下の米語能力しかない私には,微妙なニュアンスはわからないが,NERVUN氏は「イエス・ウイ・キャン」しか分かりもしない日本人が「オバマジョリティ」とは笑止千万,と批判しているように思えてならない。
 
Obamajorityは,おそらくアメリカでは民主党用語であり,世界では通常兵器で米国の世界覇権を再構築しようとする米国スローガンと受け取る人が少なくないであろう。
 
カタカナ英語で「オバマジョリティ」などといっていると,言葉のそのような意味のズレを見過ごしてしまう恐れがある。
 
5.カントとオバマ大統領
私は,オバマ大統領が傑出した政治家であり,その核廃絶論も真摯なものであることを信じている。オバマ大統領は,空想的観念論者ではなく,カント的現実主義者である。
 
カントは,現実主義に徹した結果,武器は武器によって,戦争は戦争によって廃絶される,と唱えた。兵器の「進歩」が戦争を不可能にするから,常備軍を廃止し,諸国家連合を組織し,永遠の平和を求めよ,とカントは人間の理性に訴えかけたのだ。
 
オバマ大統領は,現代のカントたり得る人物だ。私は,オバマ大統領がそのような本物の現実主義平和論を追求する限り,彼を支持したいと思っている。
2009/8/9

広島・長崎「平和宣言」批判

谷川昌幸(C)
1.反核・非武装平和の理念
8月9日,長崎・爆心地公園の「ピースウィーク2009市民集会」に参加,原爆犠牲者を追悼し,核廃絶への努力を改めて心に誓った。
 
広島・長崎への原爆投下は戦争犯罪であり,その責任は徹底的に追及されなくてはならない。また,核兵器は人類絶滅をもたらしかねない悪魔の兵器であり,廃絶に向け,最大限の努力を続けるべきだ。
 
反核・非武装平和は日本国憲法の根本理念でもあり,私は憲法保守主義者として,この理念に殉じたいと願っている。
 
長崎・爆心地公園
 
2.「平和宣言」への違和感
この反核・非武装平和の立場からすると,今年の広島・長崎の「平和宣言」には,まず全体として,大きな違和感を感じる。
 
広島市長も長崎市長も,オバマ米大統領のプラハでの核廃絶発言を絶賛した。広島市長は,「私たちには,オバマ大統領を支持し,核廃絶のために活動する責任があります」と述べているし,長崎市長は,オバマ大統領の「強い決意に,被爆地でも感動が広がりました」と手放しで称賛している。
 
しかし,これは少し違うのではないか。オバマ大統領は崇高な理想主義者でもなければ,人類救済のため核廃絶を唱えているわけでもない。オバマ大統領は,冷徹な現実主義者であり,アメリカ国益のため核廃絶努力を宣言したのだ。
 
世界が合理的な主権国家から構成されている限り,核兵器は国家の安全を守るもっとも強力な兵器であった。ところが,グローバル化により,世界は非国家的テロ攻撃の時代となり,核兵器はかつてのような抑止力を失ってしまった。核兵器は,持てば持つほどテロ攻撃を誘発し,国益を害するようになった。現実主義者オバマ大統領は,この新しい現実を見据え,核廃絶への「道義的責任」を唱え始めたのだ。
 
このことは,オバマ大統領以前に核廃絶を唱えたのが,アメリカを代表する現実主義者たちだったことをみれば,すぐ納得できる。2007年1月4日,ウォールストリートジャーナルに「核兵器なき世界(A World Free of Nuclear Weapons)」という論説が出て世界を驚かせた。筆者は,G.シュルツ,W.ペリー,S.ナン,そしてキッシンジャーの4人。彼らはいずれも米政府や議会の要職を務めた人物で,当然,核抑止力論を支持していた現実主義者である。それが揃いも揃って核廃絶を唱えたのだから,世界は驚いた。
 
しかし,これは決して彼らの変節ではない。彼らはいまも冷徹な現実主義者であり,アメリカ国益を第一としている。彼らは,現実主義者だからこそ,アメリカ国益のためには核廃絶努力,あるいは少なくとも核廃絶スローガンが必要になった,と判断したのだ。
 
これを見ても,オバマ大統領がアメリカ国益第一の現実主義者であることは,明白である。
 
むろん,誤解なきよう補足しておくと,オバマ大統領の核廃絶論が平和論として高く評価されることはいうまでもない。それは,理想主義者たるレーガン,ブッシュ両元大統領の核抑止力論の観念性,空想性とはまるで次元の異なる冷徹な現実主義的平和論である。その意味で,あるいはその観点から,私たちはオバマ大統領の核廃絶努力宣言を支持し,核廃絶のため共闘することが出来るし,また努力すべきなのである。
 
3.核兵器から通常兵器へ
このような見方に対しては,理想主義だろうが現実主義だろうが,核廃絶ならそれでよいではないか,と批判されるかもしれないが,実際には両者は決定的に異なる。
 
オバマ大統領を理想化し手放しで絶賛していると,オバマ大統領が抑止力を失った核兵器から通常兵器へと軍事戦略を転換しつつある危険な事実を見過ごすことになってしまう。
 
アメリカは,もはや使えず,抑止力もなくなってきた核兵器の比重を下げ,通常兵器の比重を高めることにより,アメリカの世界支配を維持・強化しようとしている。このことは,プラハ核廃絶努力宣言がアフガン派兵増強とセットであったことを見れば,一目瞭然である。
 
そして,いうまでもないことだが,核兵器が削減されれば,通常兵器は増強されてもよい,ということには決してならない。あえていうなら,核兵器であろうが通常兵器であろうが,被害者個人にとっての残虐さには質的な差はない。私の父は,フィリピンで腰を撃たれ,弾丸摘出ができず,長年後遺障害に苦しみ続け,おそらく鉛か何かの影響でガンになり死亡した。通常兵器であれ,残虐に変わりはなく,廃絶されなければならない。
 
広島・長崎両市長の「平和宣言」は,オバマ大統領を理想化・道徳化しており,したがって「宣言」を読む人々に,オバマ大統領がもつ核廃絶と通常兵器増強の危険な二面性を見過ごさせる恐れがある。これは「平和宣言」としては適切とはいえない。
 
 4.英語帝国主義への屈服
つぎに,これは広島「平和宣言」についてであるが,「宣言」には不自然かつ卑屈な英語使用が見られる。
 
「世界の多数派である私たち自身を『オバマジョリティ』と呼び,力を合わせて2020年までに核兵器の廃絶を実現しようと世界に呼び掛けます。」
 
これはひどい。「オバマジョリティ」とはいったい何か? 右派流に表現すれば,「日本語の品格」もなにもあったものではない。 あるいは,Obamajorityは,米民主党の党宣伝活動の一つではないか? 広島オバマジョリティは,米民主党に政治献金でもするつもりか?
 
「オバマジョリティ」――まるで,アメリカと英語と民主党に卑屈にこびているようではないか。日本語として,およそ美しくない。しかも,最後に数行の英語が挿入されている。これはいったい何のつもりか?
 
広島市長の「平和宣言」は,日本語で書かれた宣言である。日本語で書く以上,日本の言語文化を尊重し,最大限,完成度の高い日本文にする努力を尽くすべきである。自文化を尊重せずして,どうして他の文化を尊重し,世界平和が実現できるのか。
 
完全な思い違いは,「最後に,英語で世界に呼び掛けます。We have the power....」の部分。
 
世界への呼びかけがなぜ「英語」でなければならないのか? 世界には,たくさんの言語がある。そして,自分たちの言語を守るため,命がけで闘っている人々も少なくない。この宣言は,そのような言語,そのような人々のことなどまったく眼中になく,世界支配言語たる英語に与し,しかも,あえていうならば,いまや米政府の国策となった,いわゆる「核廃絶努力」宣言を絶賛しているのだ。
 
5.多文化共生時代の平和宣言を
広島市長は,グローバル化により世界が根本的に変化してしまった現実をまったく見ていない。オバマ大統領が現実主義だとすれば,広島市長は観念的理想主義だ。
 
参加者の大多数が日本人である広島の「平和祈念式」で広島市長が宣言するのだから,「平和宣言」は「品格のある日本語」で書かれるべきだ。
 
そして,それを優れた語学能力をもつ翻訳者に依頼して各地の言語に翻訳し,同時通訳やテレビ,ラジオ,インターネット,新聞,雑誌等を通して,世界中に配布すべきである。
 
「オバマジョリティ」といった米民主党宣伝用語を安易に拝借し,広島が全市をあげて米政府支持や民主党支持を表明しているかのような印象を世界に与えるべきではない。
 
グローバル化時代における「平和宣言」は,世界中の被抑圧文化や被抑圧諸民族と連帯するものでなければならない。核廃絶において,核保有国や先進諸国が大きな役割を果たすとしても,現代の多文化・多民族の時代においては,圧倒的多数の他の諸国の積極的協力がなければ,核廃絶の目標はとうてい実現できないであろう。
 
▼補足:軍事同盟強化・対テロ戦争参加要求
オバマ大統領のプラハ演説の隠されたねらいは,アメリカを盟主とする軍事同盟の強化と,対テロ戦争や地域紛争への参加要求である(演説引用は日経HPより)。
 
「共通の安全保障を提供するため、同盟(NATO)を強化しなければいけません。」
 
「NATOの(集団防衛条項)第5条は明確に述べています。一国への攻撃はすべての国への攻撃であると。これは今日の約束であり、永遠の約束でもあります。」
 
「チェコ共和国の人々は米国が攻撃されたとき、その約束を守りました。何千人もの人々が米本土で殺され、NATOは反応しました。アフガニスタンでのNATOのミッションは大西洋の両側の人々の安全の基礎となっています。」
 
また,核兵器についても,従来とまったく同じ論理で,保有を宣言している。
 
「冷戦思考に終わりを告げるため、私たちは国家の安全保障戦略における核兵器の役割を小さくし、他国にも同じようにすることを促します。間違えてはいけません、こうした兵器が存在する限り、米国は敵国を抑止するために安全でしっかりした、効果的な(ミサイルの)保有量を維持します。そしてチェコ共和国を含めた同盟国を防衛することを保証します。」
 
「イランからの脅威が続く限り、私たちは費用対効果があり、(能力も)証明されたミサイル防衛システムを進めます。」
 
つまり,核兵器については,相手が核削減に応じたら自分も核削減する,ということであり,その限りでは,従来の核抑止力論と理論的には何ら変わりはない。
 
その一方,同盟国に対する軍事協力要求は従来以上に鮮明に打ち出されている。したがって,日本にとっては,オバマ政権は,レーガン政権やブッシュ政権よりも,はるかに危険である。
 
オバマ政権を呑気に礼賛していると,対テロ戦争・地域紛争への自衛隊派遣を拒否できなくなってしまう。自衛隊派遣は際限なく拡大し,名誉の戦死が続出し,日本は軍国化して行くであろう。
 
オバマ大統領は卓越した政治家であり,核兵器の限界を見抜き,核廃絶を目標として掲げた。それは高く評価できるし,日本もその目標実現のため努力すべきだが,同時に,オバマ氏は世界最強国家アメリカの大統領であって,長崎の小浜の善良な一市民ではない。日本は,あくまでも日本国憲法の大原則に従って,核廃絶を目指すべきである。
 
(参照)
 
 
2009/8/6

弁証法,H・ヤミ,サイエントロジー

谷川昌幸(C)
統一ネパール共産党毛沢東主義派(UCPN-M)という長い名前の党の中央委員,ヒシラ・ヤミ氏が,長く壮大な文章を書いている。「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」(ekantipur, Aug.6)。
 
このような壮大な弁証法を見ると,わが古き良き時代を思い出す。「正・反・合」だの「措定・反措定・綜合」だの,よく議論したものだ。
 
ヤミ氏の弁証法はそのような観念論ではない。措定=主戦論(ロルパ),反措定=和平(カトマンズ),綜合=今回の中央委員会決定。ロルパとカトマンズの2LS(2 line-struggles)の弁証法的綜合である。
 
弁証法は魔法の論理だ。何でも都合よく正当化できる。そして,常により上位の次元へと進歩している。制憲議会が弁証法的綜合の結果,議論不可能な金食い虫601議席巨大議会になってしまったのも,この有難い弁証法のせいだ。マオイストも弁証法により,役職だらけとなったらしい。議長,副議長,書記長,書記,会計等々。
 
しかし,今回の中央委員会決定はより上位の次元に達しているから,もはや多党制議会制民主主義は,明確に否定された。ヤミ氏が繰り返し強調しているように,UCPN-Mは,人民民主主義の樹立を目標に弁証法的2LS闘争を展開することになった。 マオイストだから当たり前ではあるが,こうはっきり宣言されると,国連や国際社会は困るのではないか? これまでの和平合意が根底から覆されてしまう。
 
このヤミ氏論文について,もう一つ興味深いのが,サイエントロジーとの組み合わせ。まさかマオイストがサイエントロジーと共闘しているとは思わないが,ではこの紙面はいったい何か? こんな扱いをされて,ヤミ氏,あるいはマオイストは抗議しないのか?
 
思想の無政府状態。いや,世紀初めの世紀末的退廃・無節操といわざるをえない。
 
 (ekantipur, Aug.6)
2009/8/5

राजनीति politics 政治

谷川昌幸(C)  
言葉は文化固有の意味を持つ一方,時代と共に変化している。異文化の翻訳や理解は厳密には不可能である。たとえば――
 
राजनीतिは,「politics」であり,「政治」である。しかし,これらは決して同じではない。राज=王国,統治,政府。नीति=行為,政策,規範。ここから,राजनीतिは,もともと王(राजा)が国を正しく統治する行為(नीति)という意味であったことがわかる。
 
1.近代以前の政治 
これは,ネパールに限らず,近代以前の社会ではどこでも多かれ少なかれ見られる祭政一致の考え方である。国王や為政者が,祭祀の主宰者として政治を行い,したがって政治は宗教的に神聖であり,かつ倫理的・道徳的に正しいものと捉えられていた。
 
1-1.まつりごと 
政(まつりごと)=(1)領土・人民を統治すること。(2)神をまつること。(大辞林)
 
1-2.politics  
politicsの語源は,古代ギリシャのpolis(都市国家)であり,このポリスに関わることが政治であった。そして,君主制にせよ民主制にせよ,ポリスは神聖なものとされ,政治は祭政一致であった。 中世になると,政治はキリスト教世界に組み込まれ,いわばキリスト教的祭政一致となる。
 
2.近代の政治 
近代になると,合理化・世俗化により,「政治」からまず宗教が分離され(政教分離),そして次に倫理・道徳が分離され,政治は人々の現世的利益実現のための世俗的・合理的統治技術となった。 政治は「人間の此岸的・物理的生存を保障する巨大なメカニズムに他ならない」(C.シュミット)
 
3.現代の政治 
現代になると,このような近代的・合理的・世俗的政治観が反省され,それを踏まえた上で,政治と宗教・倫理との関係を再構築する試みがなされるようになった。たとえば,ハーバーマス『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(2005)。
 
4.政治概念の変動 
このように「政治」概念は文化ごとに異なるし,また時代と共に変化する。日本でも,幕末維新の頃は,政治や社会に関する言葉の意味変化は極めて激しかった。 現代のネパールでも,政治や社会に関する言葉の意味変化は激しく,語義の的確な把握は非常に難しい。 
 
राजनीतिにも,国王の祭政一致的統治から,近代的な此岸的技術的統治の意味まである。文脈の中で,どのような意味で使用されているか,よく確認する必要がある。

布教の自由と責任

谷川昌幸(C)
今朝,いつものようにekantipurを開いたら,言語戦争記事のど真ん中に,ど派手なサイエントロジーの宣伝。私にはサイエントロジーの知識はほとんどないが,一種の宗教ではあろう。国家世俗化後,このサイエントロジーの宣伝が激増し,これはいくら何でも無神経だ,と非宗教的な私にさえ気になっていた。自由は規制があってはじめて自由たり得る。布教の自由は,規制(規則)なくしてはありえない。
 
ネパールでは,国家世俗化により,国家は宗教を政治的に規制しないことになった。しかし,これはどんな布教活動をしようが自由だ,ということではない。どんな布教活動でも許されるのなら,金持ち教団はマスメディアを買収し,文化も無視し,自由に布教してよいことになる。そのような自由は,強者の自由であり,本当の自由ではない。
 
もちろん,ヒンドゥー教の方も,主にインド方面からテレビ,ラジオをつかって盛んに宗教活動をしている。非ヒンドゥーの人々には,これは苦痛かもしれない。また仏教の場合も,平和省など,いくつかの国家機関により政治目的で盛んに利用されている。あるいは,逆に言えば,仏教が国家世俗化に乗じて,政治を布教に利用し始めている。これは許されない。
 
このように,他の宗教についても問題はあるが,それらを考慮しても,サイエントロジーの布教方法は限度を超している。
 
これは,第一義的には,マスメディアの責任である。言論機関は社会の神経,社会の木鐸であり,したがって他の機関にない大きな自由が認められている。この自由は,言論機関がその自由を社会のために公平に使用するという信頼のもとに認められている。自由を公的に使用する,という責任だ。言論機関がこの責任を放棄すると,必ず政治が言論に介入してくる。布教も公平の観点から行わないと,政治的介入を招く。
 
カンチプールには,サイエントロジーに提供したのと同じスペースを,ヒンドゥー教や仏教やイスラム教や無宗教主義などに提供する覚悟があるのだろうか? もしそうでないのなら,このような言論機関の自殺行為のようなことは止めるべきだろう。
 
サイエントロジーの宣伝。「言語戦争」記事のど真ん中に,どぎつい言葉を連ね,表示される。無神経といわざるをえない。(ekantipur, Aug.5)
2009/8/3

副大統領のハラキリ問題

谷川昌幸(C)
C.K.ラル氏が『ネパリ・タイムズ』(#462)でジャー副大統領のヒンディー語宣誓問題を取り上げている。ラル氏の文章は難解で,何が言いたいのか私にはよくわからない場合が多い。この記事も難解でわかりにくいが,要するに,副大統領にハラキリをさせず,まあまあ,なあなあで矛を納めるのが賢明ということらしい。
 
ラル氏は,「学識ある最高裁2判事」が,賢明にも,ヒンディー語宣誓は憲法の「精神」に反し,ネパール語宣誓書への署名も無効であると判定した,と評価する。そして,最高裁は,国家最高法規(憲法)の最高解釈権者だから,明確に述べられた判決の法的根拠を疑うことは難しい,と主張される。 
 
 
しかし,本当にそれでよいのだろうか? 副大統領は,ネパール語宣誓書に署名しており,一般的には,これが正式文書であり有効だ。また,最高裁は法令の最高解釈権をもち,国家機関と国民は確定判決への法的服従義務をもつが,それは,その判決を批判してはならないということではない。ネパールの主権は人民にあり,ジャーナリストは,社会の木鐸として,主権者人民のため最高裁判決を徹底的に吟味し,異論の余地があればそれを示し,人民の判断に資する義務がある。 
 
 ヒンディー語宣誓が憲法の「精神」に反するか否か,ネパール語宣誓文書への署名が有効か否か,これは大いに議論の余地があり,したがってジャーナリストたるもの,この点の議論を恐れてはならない。
 
 4
また,ラル氏は,「最高裁判決は技術的なものなのに,それが呼び起こした論争はまったく情緒的なものである」と批判される。
 
しかし,これは言葉の理解としては,あまりにも一面的である。言葉は理性でありかつ情念である。もし人格が統一したものであり,あるべきなら,言葉は知・情・意の統一的表現として使用されるはずだ。裁判官が扱う「言葉」も同じであり,したがって判決を純粋に技術的なものとすることはできない。もしできるとするなら,裁判はコンピューターによって置き換えられる。が,それができないことは周知の事実であり,これは裁判官自動機械論の誤謬として知られている。
 
だから,「最高裁判決は技術的であった」というのは,厳密には誤りである。言葉を扱う裁判が,純粋に技術的・論理的であり,したがって数学的客観性を持つといったことはありえない。
 
ましてや今回は「宣誓」といった心情の深部に関わる事柄を「憲法の精神」に照らして裁いたわけだから,判決にあたっては「知」だけでは済まず,憲法や副大統領の「情」や「意」を斟酌せざるをえないわけだ。判決文そのものを見ていないのでそこのところがどうなっているか正確にはわからないが,常識では裁判とはそのようなものである。
 
ところが,ラル氏は,裁判については言葉の「技術性」を無条件に認めつつ,その判決に対する世間の反応は「情緒的」「感情的」だとして批判し,こう分析される。
 
 「言語は理性的というよりもむしろ情緒的である。ヒンディー語を個人的・私的に愛好しつつ,公的には嫌悪するのは,ネパール・プチブルが『インド的』なあらゆるものに対し心に抱いている屈折した憧憬と,それ故の鬱々たる憤りの反映にすぎない。それは,偉大なる兄(Big Brother)に対する根深い劣等感と絶望感から生み出されるのである。」
 
 これは周知の事実だ。物心ともインドに依存しているにもかかわらず,それを認めてしまうと,ネパールは跡形もなく吸収されてしまう。これは,繰り返し繰り返し語られてきたネパールの常識だ。
 
 この常識をもとに,ラル氏は,「民族中心主義(ethnocentrism)」は危険だから,これを防止せよ,と警鐘を鳴らす。そして,ジャー副大統領を法廷侮辱罪で告発した人々を,変な理由で,評価する。つまり,この告発により,「最高裁は判決を見直し,ジャー副大統領のメンツをつぶさないような判決を出す機会を与えられた」というのだ。
 
しかし,これは屁理屈であり,理屈にはなっていない。ここには言葉の「技術的」正確さは見られない。実際には,最高裁判決は「言葉」理解が浅薄であり,判決としては不十分であった,ということではないか。ところが,ラル氏はそれを認めず,副大統領にも最高裁にも傷をつけないよう,まあまあ,なあなあで争いをおさめるべきだ,と考えておられるようだ。
 
この記事の中でラル氏は,「ジャー副大統領は絶対に政治的ハラキリはしない」と書いている。「ハラキリ」とは穏やかでないが,この日本語を彼は日本で学ばれたのではないか? そして,そのついでに,議論を詰めず,お茶を濁して,まあ~るくおさめる日本政治文化の奥義をも会得されたのではないか? 
 
 
しかし,これはジャーナリズムの行き方ではあるまい。そもそも,民族やジャナジャーティを焚きつけ,ネパール全土を,まるで小学生の図工のように民族ごとに色分けし,勝手気ままに切り貼りし,民族自治(自決)の空手形を乱発し,連邦制の夢想をしゃべり散らしてきたのは,マオイストであり「民主的」諸政党だ。その「精神」に忠実に,ジャー副大統領がヒンディー語宣誓をした。彼が日本的な「ハラキリ」などしないのは当たり前だ。
 
 ジャーナリズムは,主権者人民のため,そこに切り込み問題提起すべきではないか。民族中心主義も熱狂的愛国主義(jingoism)も,ラル氏が警告するように危険なものだ。だからこそ,臭いものにフタではなく,何がそれらを生み出すのか,その根源をジャーナリズムは追究し人民の前に暴露すべきであろう。
 
*  CK Lal, "The VP's vow row: Ethnocentrism is an extremely risky proposition for a country as diverse as Nepal," Nepali Times, #462 (31 Jul - 06 Aug 2009)