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    11/12/2009

    ネパール憲法勉強会

     谷川昌幸(C)
    日本政治総合研究所(白鳥令理事長)が,ネパール憲法勉強会を開催する。お問い合わせは,下記まで。
     
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       ネパール憲法に関する勉強会

     
    報告者: Dinesh Tripathi氏(LL.M.USA.Advocate,Supreme Court Nepal)
     
    報   告:「ネパール憲法について」(使用言語:英語)
     
    日   時: 平成21年11月24日(火曜日) 午後6:00~8:00
    会   場: 国際文化会館 本館4F 402号室
         東京都港区六本木5-11-16  電話:03-3470-4611    
     
    主   催: 日本政治総合研究所(IPSJ) 電話:03-3460-2392
    11/10/2009

    マオイストの象徴的自治州宣言

    谷川昌幸(C)
    マオイストが,あちこちで自治州(解放区)宣言をしている。Nepalnews.com(Nov9)によれば,ゴパル・キランティ政治局員が,「キラント州」を宣言した。州人民大会で,キランティ同志は,各カーストの愛国者人民が一致団結して封建勢力,インド膨張主義,アメリカ帝国主義を粉砕することを訴えた。
     
    勇ましく,この地方のマオイスト協同組合の役員である私にとっては心強い限りだが,どうも,いまいち納得が出来ない。
     
    キテンティ同志によれば,この自治州宣言は「象徴的」であり,州首都も州役職者も未定だそうだ。
     
    さらに,州自治を高らかに唱えながら,キランティ同志は,象徴的州宣言の許可をプラチャンダ党首同志から得たのだそうだ。州自治の前に,マオイスト支部の自治の方が先ではないかな?
     
    民族は危険きわまりない観念だ。こんなものを弄んでいると,とんでもないことになる。ウソだと思うなら,ナチス前夜のドイツや旧ユーゴでも見てみるとよいだろう。
     
    11/4/2009

    लोकतन्त्र と州インフレ

    谷川昌幸(C)
    ネパールは万事加算方式。要求がでると,次々と足していき,ツケは結局国際社会に回す。これこそ万人満足のलोकतन्त्र, जनतन्त्र, गणतन्त्र の極意である。
     
    これは,いま大騒ぎしている連邦制(संघीय प्रणाली )についても同じこと。マオイスト案は,当初9州だったのに,制憲議会選挙マニフェストでは11州となり,先日,デブ・グルン議員が「国家再構築委員会」に提出したマオイスト案では15州となっている。
     
    他の政党も,「民族」要求を次々と受け入れ,州インフレに加担している。これは,制憲議会が601議席に膨張し,由緒ある国会議場に入りきらず,やむなく宴会場を借り,ろくに議論もせず,給与・経費だけ無際限に急増させているのと同じことだ。
     
    जनजाती の先駆者,ハルカ・グルン氏は,学識も人格も傑出した方であったが,グルン案は何と25州。生前お目にかかったとき,「民族」政治は危険ではないかと申し上げたが,現状はそのとき危惧した方向に向かっているようだ。
     
    連邦制にし,州の下に準州,準々州・・・・と自治レベルを多層化していく。政府公認だけでも102民族もあるから,そうならざるをえない。
     
    行政は極度に複雑化し,役人天国となる。軍隊もこのままでは加算により15万人くらいになりそうだ。国会議員+州議会議員+準州議会議員+役人+軍人。統治コストの激増は必死だが,これも国際社会が払うのだろう。
     
    लोकतन्त्र, जनतन्त्र, गणतन्त्र はまことに結構なお題目である。
     
    マオイスト11州案
    これはマオイストのCA選挙マニフェスト。田中角栄氏も真っ青の「ネパール連邦改造計画」である。
     
    10/14/2009

    俎上のネパール国家

    谷川昌幸(C)
    ネパールの連邦制について,ちょっと調べている。国家の大まかな形についての合意すら出来なければ,そもそも新憲法などつくれるわけがない。現在は,「連邦共和国」なのに「州」も「邦」もないという,まったくもってみっともない状態だ。
     
    現在のネパール国家は,実際にはまだ,シャハ=ラナ体制が苦心惨憺して作り上げた単一制国家(unitary state)だ。これをまな板にのせ,「州」や「邦」にどう切り分けるか?
     
    この図は,UNDP=CASU主催の「連邦制セミナー(2007年3月)」の報告書表紙だ。様々な民族・集団がネパール国家を俎上にのせ,どのように分割するか,思案している。よくできたイラストだ。
     
    しかし,この図には,肝心のパトロンの姿が見えない。金を出し口を出し指図をし,ネパール国家をばらばらに切り分け,喰いやすくしてグローバル資本主義の食卓にのせようとしている親玉たちだ。
     
    この親玉たちについては,1990年革命の頃,共産党系の人々がさかんに批判していた。いまでは,マオイストも含め,ネパール知識人たちはグローバル資本主義にはほとんど抵抗しなくなった。こんなことで,本当によいのだろうか?
     
     国家を切り分ける諸民族
    UNDP, Federalism and State Restructuring in Nepal, 2007
    9/18/2009

    国旗の変更

    谷川昌幸(C)
    マオイストが,国旗の変更を唱え始めた。これも言語と同じく大問題となる可能性がある。
     
    現行国旗はヒンズー教と旧体制(王室・ラナ家)の図形化であり,たしかに反科学的,反人民的である。もし民主化運動Ⅱが本物の「革命」なら,こんな因襲的国旗は廃棄し,革命的民主的国旗に変えるべきだ,ということになるのだろう。
     
    すでに国歌の方は,変更された。旧国歌は国王賛歌であり,反人民的,反科学的であった。したがって,これは早々に放棄され,科学的民主的な新国歌が採択された。味も素っ気もなく,2+3=5のような国歌だが,このようなものこそ科学的な正しい国歌なのだ。
     
    マオイストは,この国歌と同様,国旗も科学的人民的なデザインへの変更を要求している。すなわち,各州に星(★)を一つ割り当て,それを国旗にデザインする。マオイスト連邦案は13州なので,13星紅旗となる。あるいは,開発区をおくとすると,星条旗となる。
     
     13星紅旗にせよ星条旗にせよ,科学的にデザインされることになるから,当然,正しい民主的国旗である。ヒンズー教のような迷信や王室のような封建的権威にはもはや依存しない。完全民主主義連邦共和国には,そのような科学的に正しい民主的国旗こそが相応しいのだろう。
     
         
    現在の国旗       13星紅旗のデザイン例
     
    9/16/2009

    ジャー副大統領の逆襲

    谷川昌幸(C)
    ジャー副大統領が,またまた最高裁に反論書を提出した。ジャー氏は,最高裁のヒンディー語宣誓違法判決により職務停止中だが,副大統領の地位を失ったわけではない。国権の最高機関・制憲議会により正当に選出されながら,まだ就任宣誓をしていない状態(1年以上も!)なのだ。
     
    ジャー副大統領がスゴイのは,ネパール語宣誓文書にはちゃんと署名している点だ。M.ウェーバーがいうように,そして広く世界中で認められているように,近代化とは文書化のことであり,口頭よりも文書が優先する(文書主義)。法律を熟知しているジャー氏は,近代行政のこの大原則をうまく利用しているのだ。
     
    彼は何もかもわかった上でやっている。
     ・新国家の国是は民族自決 → 民族言語使用の正当性
     ・民主主義ないし近現代的行政の文書主義原則 → ネパール語宣誓書署名
     ・人民選出議会の優位 → 議会決定の優位性(統治行為論)
    だから,原理的・論理的には彼の論破は難しい(インドには司法優位の伝統があるが)。
     
    連邦民主共和国の国是によれば,こうなりますよ,それでよいのですか――彼はこう挑戦しているのだ。いやはや,まさしく悪魔の代弁人だ。
     
    この挑戦には,連邦民主共和国の押しかけgodfather, godmotherたちにも応える義務がある。さんざん扇動して火事になりそうになると,あわてて首をすくめるのは,男らしくも女らしくもない。
    7/8/2009

    ハーバーマスとポスト世俗化国家(1)

    谷川昌幸(C)
    1.ハーバーマスとポスト世俗化時代
    ネパールでは,ようやく世俗国家が実現したばかりだというのに,欧米でははやポスト世俗化時代だそうだ。近代的世俗国家はもう時代遅れ。歴史とは皮肉なものだ。
     
    いま,ポスト世俗化時代の国家のあり方について,熱く語っているのは,現代世界最大の哲学者(の一人)ユルゲン・ハーバーマス。
     
      ハーバーマス・ラッツィンガー(三島憲一訳)『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』岩波書店,2007年
      Jurgen Habermas and Joseph Ratzinger, Dialektik der Sakularisierung, 2005
     
    ハーバーマスのものは,はるか昔,まだ元気で目もよかった頃,読んだことはあるが,あまりにも難解,わかった振りをして,途中であきらめてしまった。しかし,なにやら大切なことを言っているらしいということは,十分に察知できた。
     
    そのハーバーマスが,いまでは「公共性」論の中心に鎮座し,民主主義や憲法を議論するには避けては通れない大御所となってしまった。老化で体力・気力・視力とも衰えているのに,いまさらハーバーマスを読むのは気が重いが,まぁ仕方ない,わかる範囲で読んでみよう。
     
    2.ハーバーマスとネパール
    ハーバーマスは,おそらくネパールには行ったことはないだろうし,ネパールについて論じてもいないはずだ。ネパールは関心外といってよい。
     
    しかし,ネパール側からは,ハーバーマスは大いに注目されている。もっとも熱心なのは,わが畏友デブラジ・ダハール氏であろう。彼は早くからハーバーマスを読み,市民社会論をネパールで説き,それを基礎にネパール民主化を促進しようと努力してきた。現在はFES(Friedrich-Ebert-Stiftung )所長。
     
    その成果かどうか,しかとはわからないが,現在のネパールにおける民主主義構築,憲法制定の思想的基礎は,明らかにハーバーマスあるいはその流れをくむ学派にある。騒々しくはかない政治家たちの日々の政争や諸勢力の離合集散の表層の下に,ハーバーマス的公共性に基礎づけられた民主主義の実現を目指す,大きな流れが見て取れる。
     
    ポストモダンのポスト世俗化思想だから,成功するかどうかはわからない。難しいかもしれないが,後発国の理論的優位により,あるいは奇跡的にうまくいくかもしれない。注目に値する。
    4/26/2009

    世俗主義とコミュナリズム(1)

    谷川昌幸(C)
    1.世俗国家の宣言
    ネパールは,暫定憲法(2007)により世俗国家となり,2008年5月28日成立の制憲議会もこれを認めた。「暫定憲法第4条(1) ネパールは,独立,不可分,主権的,世俗的包摂的な,完全民主主義の国家である。」 ネパールは「世俗国家」であり,これを前提に「宗教の権利」(第23条)も認められている。

    しかし,インドと同様,ネパールにおいても,人々の生活と宗教は西洋諸国や日本よりもはるかに緊密かつ複雑であり,実際には,世俗国家の実現は非常に難しい。憲法で世俗国家を宣言しても,国家は宗教からとうてい逃げられず,「世俗性」とは何かがつねに問われざるをえない。

    2.政教分離としての近代世俗主義
    世俗国家という場合の「世俗」は,英語ではsecularであり,日本語としてはむしろ「非宗教的」と訳した方がよいかもしれない。西洋近代の世俗主義は,「反宗教」や「宗教否定」ではなく,国家と宗教を分離し,政治を非宗教的な形で行うべきだという考え方だからである。

    近代世俗国家においては,宗教の政治支配が否定される一方,その逆の政治の宗教支配も否定される。政治(国家)と信仰(宗教)はいずれも重要な人間活動だが,一方が他方を支配するというのではなく,それぞれが別の領域であり,相互に独立している。政治は公的領域,宗教は私的領域であり,政治は私事としての宗教に介入せず,宗教も公事としての政治に介入しない。これが,西洋近代で成立した世俗主義ないし政教分離の考え方である。

    ネパールについて見ると,「世俗的」はधर्मानिरपेक्ष,「世俗主義」はधर्मानिरपेक्षताである。つまり「世俗的」とは,ダルマ(宗教,教義,徳,善,義務,本分,本質)とは無関係(निरपेक्ष)ということである。

    また,S.K.シュレスタの『法学事典』(Pairavi Prakashan)でも,世俗主義は「1.あらゆる形の宗教・信仰を拒否する政治哲学・社会哲学。2.公教育や他の政策は,宗教なしに行われるべきだとする考え方」と説明されている。

    これを見る限り,「世俗的」は,ダルマの解釈は難しいが,とりあえずそれを留保するならば,少なくとも用語上あるいは法学事典の説明では,ネパールでも西洋や日本とほぼ同じ意味で使われていると言ってよいだろう。すなわち,「世俗的」は,字義的には「政教分離」を意味するのである。

    3.政教分離は可能か?
    しかし,問題は,西洋近代のような世俗化=政教分離がネパールにおいて実行できるのか,あるいは実行できるとして,それが本当に望ましいことか,という点にある。

    これまでネパールはヒンズー教国家であり,生活と宗教は渾然一体をなしていた。それをいかにして分離するのか? あるいは分離したら,どのような問題が生じるか? これは,よくよく考えてみるべき根本問題である。

    この問題について興味深い分析をしているのが,関根康正『宗教紛争と差別の人類学』(世界思想社,2006)である。この本の対象は,インドの宗教紛争であるが,ここで述べられていることは,世俗化に着手したネパールにとって,非常に示唆的である。

    分析は鋭く多面的であり,決して読みやすい本ではない。あまりにも難解で,よく分からないところもある。しかし,理解できた部分だけでも,著者の問題提起の重要性は,よく分かる。さすがインド学だ。ネパールについては,残念ながらこのようなレベルの本は,管見の限りでは,見あたらない。

    以下では,「第1章 植民地主義の遺産―セキュラリズム(政教分離主義)とコミュナリズム(宗教対立主義)という難問(p27-48)」を手がかりに,ヒンズー教世界における世俗主義と宗教の問題を考えていくことにする。

    (未完)



    4/19/2009

    ヒンズー教王国象徴としてのネパール国旗

     谷川昌幸(C)
    国旗と国歌は国家の最も重要な情緒的社会統合手段であり,大きな政治変革のあとには新しい国旗・国歌がつくられるのが普通だ。逆に言えば,国旗・国歌は制定時の国家理念の表現である。
     
    もしそうだとすると,ネパールが君主制から共和制への民主革命を達成しながら,国歌だけ変え,国旗をそのままにしているのは,不自然といえる。おそらく,国歌(歌詞)は「国王賛歌」であったから変えざるをえなかったが,国旗は図像であり,それほど明確な意味の限定がないから変えなくてもよかったということであろう。(意味の明確な国章は後述のように新国章に作り替えられた。)
     
     しかし,本当に,ヒンズー教王国の国旗を世俗共和国の国旗として,そのまま使い続けることができるのであろうか?  (ネパール国旗については文献がいくつかあるが,どこかに紛れ込んでしまい,ここでは参照できない。以下は,うろ覚えなので,もし間違いがあれば,あとで訂正します。)
    ネパール国旗
     
    ネパール国旗は,公式には,1962年憲法により制定された。クーデターで独裁的権力を握ったマヘンドラ国王が,非政党制パンチャヤト民主主義(partyless democratic Panchayat System)の憲法をつくり,その第5条で「ヒンズー教王国」の国旗として現在のネパール国旗を制定したのだ。
     
     しかし,この国旗の図像自体は新しいものではない。1962年憲法が定めているように,「ネパール国旗は伝統的に昔から継承されてきたもの」(第5条)である。「伝統」はそのときの支配者が創るものだから,1962年憲法のいう「伝統」は,もちろんビシュヌ神化身たる国王が自らつくった「伝統」である。つまり,ヒンズー教とシャハ王家と,そしてまだまだ有力だったラナ元将軍家の「伝統」である。それらの「伝統」を図像化して現在の国旗をつくったのだ。
     
    まずヒンズー教について。これは明白だ。国旗の三角形は,ヒマラヤをデザインしたものではない。三角形には昔から神秘性が認められていた。ピタゴラスはその神秘を解明しようとして「ピタゴラスの定理」を発見した。キリスト教は「父なる神・子イエス・聖霊」の三位一体を説く。そしてヒンズー教は,「ブラフマン・シバ・ビシュヌ」の三神世界を構築している。三角形は,ネパールではヒンズー教のシンボルなのだ。
     
    だから,ネパールのヒンズー教寺院にはたいてい国旗と同じ二層三角形の旗(ときには三角形一つの旗)が立てられている。いつの頃からあったかはっきりしないが,マッラ王朝の頃にはすでにあったらしい。このヒンズー寺院の旗をマヘンドラ国王が国旗デザインとして採用したと考えるのが自然だ。
     
    この二層三角旗の成立過程については,ラナ将軍家の有力2家のそれぞれの三角旗が19世紀に一つに合わせられ,二層三角旗となったともいわれている。ありそうな話だ。
       
    (左・中)寺院の三角旗(寺院名失念)/(右)バクタプール旧王宮黄金門(1753) 
     
    次に,国旗に描かれている図像についていうと,上部の月はシャハ王家,下部の太陽はラナ将軍家を象徴している。このことは,2008年改定の社会科教科書のいくつかにも,はっきり書かれている。ただし,いまは,これでは都合が悪いので,月と太陽はネパールの弥栄を意味していると読み替えて説明される場合が多い。
     
    このように,ネパール国旗の意味解釈は必ずしも一つではないが,少なくとも,それが国旗として正式に制定されたのが1962年憲法においてであり,したがって本来の国家公認解釈が「ヒンズー教王国の象徴としての国旗」であったことは間違いない。
     
    新政府もそう見ている傍証として,国章をあげることができる。国旗と同時に1962年憲法で定められた国章には,王冠,ゴルクナート神足跡,国旗,ククリ刀,ヒマラヤ,月,太陽,牛,ゴルカ兵,ニジキジが描かれていた。
     
    ところが,新国章を見ると,国旗,ヒマラヤ以外のものはすべて削除されている。ヒンズー教と,シャハ王家およびラナ将軍家の含意を消し去りたかったからであろう。
     旧国章  新国章
     
    ではなぜ,国章からは月(シャハ王家)と太陽(ラナ将軍家)を削り,ゴラクナート神足跡と牛(ヒンズー教)を削りながら,国旗は変えなかったのか? 国旗は抽象性が高く,解釈により新しい意味を盛り込めると考えたからなのか? それとも,ヒンズー教王国の「伝統」をひそかに残したかったからなのか? それはいまは分からない。
    3/17/2009

    D.セッデンの連邦制否定論

    谷川昌幸(C)
    David Seddenは、「危機のネパール」(1980)、「ネパール人民戦争」(共編著)等の著作で知られるネパール学の権威。南ロンドン・カレッジ学長。マルクス主義者であり、マオイスト・シンパ。そのセッデン氏が、カトマンズ・ポスト(3/16)に長大なインタビュー記事を寄せ、連邦制を全面的に否定した。
     
    マオイストは、民族やカーストの不満を権力闘争に利用してきたが、これはアイデンティティ政治を招くものであり、きわめて危険である。マオイストはトラを野に放ちそれに乗って権力を取ったが,本当にそれを御すことができるのか? 以下,セッデン氏の連邦制批判の核心部分をそのまま紹介する。
     
    ・・・・・・・・(以下,引用)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    私自身は,連邦制は極めて危険だと考える。連邦制はネパールにとって大きな誤りだ。連邦制は,女性であれダリットであれジャナジャーティであれ,多数派の利益を守るためにも少数派の利益を守るためにも,実際には不要である。彼らの利益は別の方法で守られるはずだ。民族やカーストごとの自治区からなる連邦をつくるという考えは,はなはだ問題であると私は思う。
     
     また連邦制は,人々が思っているのとは逆に,基本的には反民主主義的である。なぜなら,連邦制は政治を一つの方法――すなわちカーストと民族――によってのみ行うからだ。選択の余地はない。また連邦制は,分裂を引き起こす。いま目にしているとおりだ。マデシは分離し自治州となりうるという主張は,たちまちそれに反対する運動を惹起した。タライに住むが「マデシ」には入れられたくないタルーの人々が,一週間にわたって反対運動をしたのだ。民族による政治は,いつまでも続き終わることのない問題を引き起こすだろう。私は断固主張する――連邦制は不要である。連邦制は望ましくないし,反民主主義的であり,深刻な分裂を引き起こすものである。
    ・・・・・・・・・・・・・・(以上,引用)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     
    以上のセッデン氏の議論に,私は全面的に賛成だ。が,しかし,ネパール学の権威ともあろうセッデン氏が,なぜ今頃になって,こんなことを言うのか? トラが野に放たれてしまう前に,トラは猛獣だから檻に入れておかないと危険だぞ,となぜ警告しなかったのか?
     
     少々手前ミソだが,この程度のことは,当初から私は主張してきた。そして,その要点はネパール紙上でも公表した。
    このインタビューのおかげで,私は反動王制派のレッテルを貼られたが,最近は少し風向きが変わってきた。単一国家論にせよ儀式王制論にせよ,耳を傾けてみようという人々が出てきたのである。
     
     ネパールの政治家や知識人は,欧米の流行理論の無反省な後追いはやめるべきだ。そんなことをしていると,ネパールは怪しげな欧米試作理論の格好の実験場にされてしまうだろう。
    3/11/2009

    マオイスト憲法案:新民主主義的大統領制へ

    谷川昌幸(c)

    1.マオイスト憲法案

    1時間ほど前,タメルのホテルに着き,ほっと一息入れ,「カトマンズ・ポスト」(3/10)を見たら,Aditya Adhikar氏がマオイストの憲法案(M憲法案)について論評していた。2週間前,バブラム・バタライ蔵相が発表したもので,その概要はすでに紹介したが,かなりショッキングな内容なので,アディカル氏の記事によりつつ改めてコメントしてみよう。

     

    2.「封建的」「帝国主義的」勢力の政治活動禁止

    M憲法案そのものはまだ見ていないので正確なことはいえないが,M憲法案はどうやら人民独裁の新民主主義を基本原理とするらしい。国連,先進諸国が躍起になって宣伝してきた自由民主主義ないし包摂的多党制民主主義ではない。

     

    M憲法案によれば,「封建的」あるいは「帝国主義的」勢力の政治活動は認められない。アディカル氏は,これは必ずしもM憲法案の最大の問題点ではないと述べているが,私には,これこそが新民主主義の核心であり,もしこれが新憲法に成文化されれば,人民独裁の強力な法的根拠となると思われる。

     

    たしかに自由に反対する自由を認めるかどうかは難しい問題だ。しかし,もしM憲法案のような規定を憲法に入れると,「封建的」「帝国主義的」が敵対勢力排除のレッテルとして使用される恐れがある。そのような事例は,歴史上,ソ連,中国などにおいて,無数に見られる。(中国は多党制だが,「封建的」政党や「帝国主義的」政党を排除した結果,事実上,共産党独裁となっている。)

     

    「封建的」かどうか,「帝国主義的」かどうかは,やはり政治の場で民主主義的な闘争により,決着をつけるべき事柄であろう。

     

    3.議会の諮問機関化

    アディカル氏がM憲法案の最大の問題点としているのが,議会の無力化・諮問機関化である。M憲法案は,連邦制と大統領制により立法部から権限を剥奪してしまう法構造になっているという。

     

    M憲法案では,議会は上下二院制である。

      上院:国家会議(参議院) 75議席(州,準州から直接選出)

        民族,言語,文化,宗教の代表。州関係の調整。

     下院:連邦人民代議院 245議席(122議席は直接選挙,123議席は比例制)

        大統領決定の承認が主な権限。つまり,諮問機関。

     

    4.大統領は国民投票

    M憲法案によれば,大統領は国家元首であり,政府の長である。国民投票により,51%以上の多数により選出される。51%以上得票できないときは,決選投票。

     

    5.大統領が内閣選任

    国民投票で選出された大統領は,自ら,首相と他の諸大臣を選任する。議会や政党はその選任には関与できない。また,大臣は代議院議員である必要もない。大統領は,誰でも自由に首相や大臣に選任できる。この内閣は,大統領に対して責任を負う。ただし,首相は下院に対しても責任を持つ。

     

    6.大統領の解任

    上院が議員の25%以上が署名した弾劾案を提出し,これを下院が2/3の多数により可決したとき,大統領は解任される。この方法による大統領解任は,実際には非常に難しい。

     

    7.大統領と裁判所および他の憲法設置機関

    大統領は,最高裁判所,憲法裁判所,法務総裁,人権委員会,権力乱用調査委員会などのメンバーを自ら選任する権限を有する。下院は,それらの選任を承認する権限しか持たない。

     

    8.マオイスト独裁へ

    これは,強力無比の大統領制である。アディカル氏は大統領を勝ち取った側がすべてを取る「勝者独占体制」だとして,これを批判している。

     

    アディカル氏によれば,この大統領は,強力な大衆組織を持つヘゲモニー政党を生み出すものであり,それを狙っているのはマオイストに他ならない。これにより,マオイストは地域政党や民族政党を吸収してしまおうとしているという。

     

    しかしながら,アディカル氏によれば,マオイストのこの目論見は成功しない。マオイスト大統領制は,地域や民族の諸要求をむしろ助長強化し,中央政府と州政府の間の対立を激化させ,結局は,分離独立の要求へと向かわせることになる。

     

    「M憲法案は,今後マオイストが中央権力を握って強力な国家をつくり,政治的反対勢力による妨害なしに統治することを狙っている。」

     

    しかし,そううまくいくだろうか,とアディカル氏は疑問を呈するのである。

     

    8.国王以上に強力な大統領

    以上に紹介したアディカル氏のM憲法案批判は,論点を的確に捉えている。私も氏の説に賛成だ。

     

    前回,M憲法案の大統領は,国王まがいだと書いたが,正確には国王以上に強力である。大統領は,1990年憲法の国王よりもはるかに独裁的であり,むしろ反民主的,専制的とすら言ってよいだろう。

     

    一体全体,そうしてこのような憲法案ができてしまったのか? これまでの国連(UNDP,UNMINなど)や西側諸国の憲法支援は,いったい何だったのか? 

     

    凶暴なホーリー祭が終わったら,本屋さんにいき「マオイスト憲法案」を買ってこよう。もし本屋さんになければ,マオイスト党本部に行き,研究用として1部いただいてこよう。正確な批判は,もちろんその「マオイスト憲法案」を読んでからとなる。

    3/4/2009

    マオイストの憲法草案:「大きな政府」を目指して

    谷川昌幸(C)

    バブラム・バタライ博士率いる「統一ネパール共産党毛沢東主義派(UCPN-M)」の憲法準備委員会が,党提案の憲法草案の骨格を示した。社会主義的な「大きな政府」を建設するための,意欲的な草案だ。
    90304

    1.お役所社会主義
    マオイスト憲法案は,21部(21編)145条の堂々たる巨大憲法。条文が多いということは,それだけたくさんのお役所があり,「大きな政府」になるということ。

    たとえば――監査委員会,女性委員会(男性委員会なし),ダリット委員会,包摂委員会,開発委員会,州関係調整委員会,最高裁,州裁判所,郡裁判所,憲法裁判所・・・・

    スゴイぞ! 役所がたくさんでき,お役人天国になる。誰が役人になるの? 誰が給料を払うの?

    2.大統領独裁へ
    マオイスト憲法案は,大統領を元首とする大統領制をとり,首相は内政だけを担当することになる。 つまり,大統領は国王まがいとなり,民主独裁制に向かう。ネパールには,やはり「王様」が必要なのだ。

    3.高層豪華マンション議会
    議会は,堂々の高層豪華マンションとなる。
      ・国民院(参議院) 75議席
      ・連邦代議院   245議席
      ・州議会     25-35議席
      ・郡議会
      ・村議会
    この高層豪華マンション議会の上に,大統領閣下が君臨する。

    4.連邦制の迷路
    ネパールは,13州に分けられる。州区分基準は次の通り。――民族,言語,集団的継続性,文化的統一性,歴史的・地理的近隣性,行政的利便性,経済資源の豊かさ。

    これらにより,州の領域,名称,人口,構造を決める。そして,これらの州は自決権を持ち,さらに諸民族が自治権,下位自治権を持つのだそうな。 まるでパズル。数学に弱い日本人にはとても理解できない。

    5.生活完全保障
    人民の拍手喝采を浴びそうなのが,生活完全保障。政府は雇用を保障し,万が一失業しても,生活保障手当てを支給する。社会主義万歳!

    日本はいま経済恐慌の奈落に向かってまっしぐら。失業し衣食住さえままならない人々が急増している。それなのに,資本主義の「小さな政府」は見て見ぬふり,生活保障をお願いしようものなら「自己責任」と冷たく追い返される。

    日本はいま,革命か戦争の瀬戸際だ。大げさだといわれるかもしれないが,世論は一夜にして変わる。リースマン『孤独な群衆』を読めば,大衆の危険性がよくわかる。

    革命か戦争か――もちろん,革命よりも戦争の可能性の方がはるかに大きい。アメリカが,たとえオバマ大統領になったとしても,資本主義を維持するために戦争(アフガン戦争)を必要としているように,このままでは,日本はかならず世界のどこかで不況対策としての戦争を始める。ソマリア沖か,アフガンか,それともネパールにおいてか?

    マオイストの「大きな政府」憲法案は,あまり現実的ではないが,しかし日本の現状を見ると,そう荒唐無稽なものともいえないような気がしてくる。全文が入手できたら,もう少しまじめに検討してみたい。

    * eKantipur & nepalnews.com, Mar.2.

    1/28/2009

    憲法専門家,民族連邦制に反対意見開陳

    谷川昌幸(C)
     
    制憲議会の憲法委員会で,憲法草案作成のための審議が始まっている。
     
    ネパリタイムズ(No.435)によれば,1990年憲法制定時は「政治」問題が中心であったのに対し,現在は「社会」や「民族」問題が中心になっている。そこで大切なのは,「連邦制」や「世俗主義」の意味をネパールの文脈においてよく吟味し,整理することだ。
     
    この観点から,ネパリタイムズは「アイデンティティ政治」の問題性を特に指摘している。この指摘は正しい。私は当初から,ネパールは「アイデンティティ政治」に陥ってはならない,と警告してきた。民族別連邦制など止めるべきだ。
     
    26日の憲法委員会に出席した1990年憲法起草委員たちも,「民族連邦制は国民分裂の種をまく」とのべ,連邦制に反対の意見を開陳した(nepalnews.com, Jan.26)。これはもっともな意見だ。
     
    私は,ネパールの中央権力はいまの100倍以上,強力であるべきだと考えている。強力無比の主権的国家権力を確立しつつ,明確なルール(法)に則り機能分権・地域分権を促進する。それが民主主義だ。
     
    無責任なお雇い外人は,流行に乗って,ネパールにアイデンティティ政治をけしかけ,民族連邦制を実験しようとしている。しかし,実験が失敗しそうになったら,彼らはさっさと逃げ出し,次の哀れな実験国に移動するに決まっている。
     
    そのようなお雇い外人に依存するのは危ない。いかに困難であろうと,ネパールはネパール人自身でつくって行くべきなのだ。
    11/10/2008

    正副大統領の政治的行為批判

    谷川昌幸(C)

    森林・土壌保全大臣のキラン・グルン氏(UML)が,大統領・副大統領の政治的行為を批判している。両者は儀式的地位だから,政治的行為はすべきではないということだ。(nepalnews.com,nov.9)

    たしかに,ヤダブ大統領,ジャー副大統領とも,就任以来,政治的な発言や行為を繰り返しており,他の政治的役職とどこがちがうのかよく分からない。首相と正副大統領との役割分担をはっきりさせないと,いずれ大混乱となりかねない。

    この点については,先日,ネパール制憲議会議員等を対象に開催された「政党管理・国会運営・憲法制定セミナー」(JICA東京国際センター,10月28日)において,次のような内容のお話をした。ネパールの新憲法制定において参考にしていただければありがたい。

    (講義原稿より)
    3(1) 共和制:儀式的大統領と首相
     ネパールは現行暫定憲法ですでに君主制から共和制へ転換しており,新憲法でも共和制をとることが決まっているが,共和制にも問題はある。
     古来,君主制が優れているとされた理由は,君主制では,君主(国王)が国家元首であり,主権を持つと同時に国民統合の象徴でもあるから,国民統合が容易であり,国家の意思決定も速いという点にある。主権者が2人以上の共和制,特に主権者が人民の民主共和制となると,君主制のこれらの利点がなくなる,と考えられていた。
     この問題に対する解決策の一つは,すでにネパールでは実現されている儀式的大統領と首相との併用制である。大統領は形式的・儀式的な国家元首とし,国家と国民統合の象徴の機能を担わせる。一方,首相は主権者である国民を代表して民主的に統治権を行使する。つまり,大統領は国家の精神的「権威(authority)」を分担し,首相は国家の政治的「権力(power)」を分担するのである 。この大統領・首相併用制は,多民族・多文化国家ネパールにとっては,大統領か首相のいずれかが「権威」も「権力」も独占する体制よりも望ましいであろう。・・・・
     現在のネパールの大統領についてみると,選出は制憲議会の多数決であり,首相と同じ方法である。・・・・これでは大統領も国民の一部の代表であり,国民全体の象徴とするには無理がある。
     また,大統領の権限についてみても,政治的なものがいくつもある。
     ①軍の最高指揮官(内閣の助言により指揮)
     ②非常事態の宣言(内閣の助言により宣言)
     ③首相選任の助言
     ④宗教儀式等への参加
    これらの権限のうち,①②は第5次修正で暫定憲法に書き込まれたものであり,③④はヤダブ大統領が2008年7月21日の大統領就任以降,実際に行ってきたことであり,これまでのところ特に反対はなく大統領権限として容認されていると考えてよい 。
     これらの憲法に規定の権限や事実上の権限を見ると,ネパール大統領は,議会により任免される点を除けば,国王に近い権限を持つといってよい。・・・・暫定憲法規定の軍最高指揮官としての権限と非常事態宣言の権限は,いずれも内閣の助言が必要だが,これは1990年憲法規定の国王についても同じことだった。政治的混乱で組閣できないような状況になれば,国王と同様,実際には内閣の助言なしで大統領が非常事態宣言を行い軍最高指揮権を行使することは十分に考えられる。また,首相選任についても,ヤダブ大統領は就任直後から有力者への働きかけや諸党間の調整を活発に行っており,これは1990年憲法の下で国王が行使していたのとほぼ同じ政治的権限の行使である。
     さらに宗教儀式についても,ヤダブ大統領は国家元首として多くのヒンドゥー教儀式に参加している。ネパールはすでに世俗国家となっており,新憲法でも世俗国家とされるとこと間違いない。もしそうだとすると,政教分離を原則とせざるをえず,国家元首の宗教行為は許されない。ネパールにはイスラム教徒もキリスト教徒も,他の宗教の人々もいる。大統領は,そうした人々の象徴でもある。したがって,世俗国家を選択するなら,大統領の宗教行為は禁止されなければならない。これはネパールのように生活が宗教と密接に関係している社会では,実際には非常に難しいことである。宗教と習俗をどう区別するか。大統領の公人としての行為と私人としての行為をどう区別するか。おそらく,これらの厳格な区分は困難であろうが,しかし,だからこそ政教分離の原則をたて,可能な限りその原則に照らして大統領の行為を規制することが大切となるのである。・・・・
                            (JICA東京国際センター,2008.10.28。一部修正補足。)

    8/26/2008

    連邦制の空騒ぎ

    谷川昌幸(C)

      いま新憲法論議を強力に指導しているのは,いうまでもなく国連。国連はUNDP内に「憲法助言支援団(CASU)」を設置し,ネパールを思い通り改造しようとしている。その目玉の一つが,連邦制。

     連邦制は,古い制度だ。ムスタン王国などがあった頃は,ネパールは実質的には連邦国家だった。徳川時代の日本も中世ヨーロッパも同様だ。その古くさい制度を,最新式と装い,ネパールに押しつけようとしている。何のために?

     独立性の高いいくつかの小国が連合して連邦国家になったり,国内に独立性の高い地域がいくつかある国が連邦制に組み替えるという事はよくあり,これは理解できる。が,ネパールはそのいずれでもない。こんな小さな国を,9(マオイスト案)~25(H・グルン案)の小部分に分割してどうなるというのか? 

     

     つい2,3年前までは,何かというと地方分権,地方自治拡充だった。それが,いまでは連邦制の大合唱。昨年,連邦制批判の評論を書いたら,皆から袋だたきにあった。いまでも,一元国家を弁護したといって非難される。つい2,3年前の自分自身のことを,ころっと忘れてしまったようだ(NCの超大物B氏も連邦制に反対だったはずなのに,私の一元国家弁護論を読んで怒っているそうだ)。そんな自分自身の「自決」「自治」ですらできない人々に,民族自決のための連邦制など唱える資格はない。

     

     とにかく,ネパールの連邦制論は面白くない。面白くないので,濃いコーヒーで眠気を払いいつつ,国連の連邦制論を読んでみた。

     Federalism and State Restructuring in Nepal: The Challenge for the Constituent Assembly, Report of a Conference organised by the Constitutional Advisory Support Unit, UNDP, 23-24 March 2007, Godavari, Nepal, Kathmandu: Nepal, 2008

     

     まったくもって処置なし。はじめは2,3行おき,そのうち10行に1行となり,最後は1ページ1行くらいしか読まなかった。くだらない。

     とくにケシカランのは,CASUの不誠実さだ。はじめの概観で,“CASUが連邦制を推奨していると受け取られるとマズイので,CASUは,著名なプスパ・カンデル(トリブバン大)をはじめとする「反連邦制」の発表者を何人か招いた”といっているのに,本論には連邦制反対論はほとんど取り上げられていない。とばし読み部分にあるかもしれないが,全体としては連邦制万歳レポートだ。国連が音頭をとり,ネパール知識人たちに連邦制を合唱させている。中国式「口パク」よりはましだが,主体性の欠如,はなはだしい。

     

     私は,連邦制そのものに反対しているわけではない。歴史的,社会的,政治的諸条件により,連邦制がのぞましい国はたくさんある。しかし,いまのネパールを連邦制にすることが,本当に必要なのか?  そもそも,誰が連邦制を欲しているのか? 連邦制で,誰が儲かるのか?

       (1)知識人。議論のタネがなくなると失業する。いまや「連邦制」産業,大流行。

       (2)役人。行政機構が複雑となり,役人天国となる。

       (3)政治家。口利きの機会が激増し,儲かる。

     

     連邦制でマイノリティの権利や文化が守られる,というのは全く根拠のない幻想である。いまマイノリティの文化を浸食しているのは,グローバル資本主義。金儲けのためマイノリティ文化を容赦なく破壊しつつある。この資本主義化を阻止するくらいの元気のある連邦制ならまだしも,そうでないのなら,連邦制ではマイノリティの文化破壊は阻止できない。

     なぜ一元国家ではいけないのか? 一元国家の下で人権を平等に保障する努力をしつつ,地方自治や集団自治を拡大していく方が,はるかに安全で効率的ではないか。

     国連は,もし本当に連邦制をネパールに押しつける意図がないのであれば,2,3年前まで街中に氾濫していた地方自治論や分権論のなかから優れたものを選び,編集・出版し,議論を深める努力をすべきではないか。そうしないと,こんな一方的な「一元的」議論では,ネパール政治の成熟は到底期待できはしない。

     

    一元国家でも千客万来のチベット系ホテル(屋上より元王宮を望む)

    80826TGH

    7/27/2008

    政治化する大統領

    谷川昌幸(C)
    ヤダブ大統領が急速に非儀式化=政治化している。生物学的血縁で正統化される国王ではなく,人為的に選出される国家元首だから政治化は当然である。
     
    1.首相メーカーとしての大統領
    ヤダブ大統領は,就任直後から精力的に各党指導者たちと会見し,首相指名のチャンスをうかがっている。
     
    コイララ首相:首相から政党の意見聴取と首相指名方法について助言を受ける。ヤダブ大統領に対し,コイララ首相は,すべての政党の意見を聞き,マオイストに新政府を組織するよう説得すべきだ,と助言。
    マオイスト:プラチャンダ議長,バブラムUPF議長,KP・マハラ情報大臣らと会見。直ちに全党合意政府を組織するよう要請。
    UML:JN・カナル書記長らと会見。
    MJF:ウペンドラ・ヤダブ議長らと会見。
     
    このように,ヤダブ大統領は急速に政治化した。もはや,セレモニアルなどと,誰もいわないだろう。大統領のこの政治権力は,国王のそれと同じく,諸政党の対立抗争関係に依存している。諸政党の足並みが揃わなければ,ヤダブ大統領は国王以上の首相メーカーとなりうる。むろん,コイララ首相の再任指名も大いにありうる。
     
    2.祭祀主宰者としての大統領
    ヤダブ大統領は,選任直後,主要寺院を参拝し,神々の祝福を受けた。そして,7月26日にはパタンの「ボート祭」に副大統領,首相,最高裁長官,諸大臣らを率いて参列,ネパール共和国軍の礼装警護を受けた。
     
    ボート祭の主賓は,国王→コイララ首相→ヤダブ大統領,と国家元首の交代とともに変化した。変化しないのは,祭政一致。あれだけ大騒ぎして世俗国家になったのだ。だったら,世俗権力者は,宗教儀式を遠慮するくらいの意地は見せるべきだろう。もしマオイストが,その理念通り祭政分離を貫くなら,その一点だけでもマオイスト政権は十二分に評価できる。
     
    3.国王化する大統領
    ヤダブ大統領は,頑張れば,祭祀主宰者,首相指名者となることができる。人民主権の90年憲法下で国王もそうしてきた。ヤダブ大統領に,それほどのカリスマ性と政治力があるかどうか,それはまだわからないが。
     
    7/23/2008

    ヤダブ大統領の宗教行為

    谷川昌幸(C)
    世俗国家ネパールの初代大統領に選出されたばかりのヤダブ氏が,さっそく寺院参拝を行った。
      21日 パシュパティナート
      22日 クマリ,ハヌマンドカのガネシュ
    大統領は国家元首であり,国民全体を象徴する。それなのに,なぜヒンズー教・仏教の礼拝なのか? なぜキリスト教会やモスクに行かなかったのか? 
     
    ネパールには,他宗教や無宗教の人々が多数いる。ヤダブ大統領は,その人々の信仰の自由を侵害したのだ。これは原理問題だ。キリスト教徒,イスラム教徒,無宗教者らは,抗議行動を始めるべきだ。
     
    この大統領は,国王とどこが違うのか? 選挙制や任期制の王制はいくらでもある。そのうち,ヤダブ大統領も,歴代国王に習い,首相裁定指名に乗り出すに違いない。
    7/13/2008

    良心的兵役拒否国家から地球貢献国家へ:朝日の変節

    谷川昌幸(C)

    朝日新聞が変だ。血液型優生学に加担したり,海外派兵を扇動したり。気になったので,昨年末出版の『地球貢献国家と憲法』(朝日新聞社)を読んでみた。本書は,昨年話題になった社説21と関連記事の再録であり,そこでの議論については昨年すでに批判した

    今回読んでみてビックリしたのは,若宮啓文・論説主幹の「はじめに」(2007年10月付)である。他の論説委員も目を通した朝日の社論であるはずなのに,これはヒドイ。遺憾ながら「変節」と言わざるをえない。

    1.変説と変節
    説を変えること,つまり「変説」自体は問題ではない。状況が変わったり,誤りを発見したときは,きちんと説明した上で,説を変える。それはジャーナリズムや学者の良心であり義務である。

    これに対し,理由を説明せずに,あるいは不合理な理由で説を変えるのは,「節」を屈し枉げること,つまり「変節」である。『新明解』の明解な定義によると,「貧困やさまざまの圧力のために,それまでの自己の信条を保持することを心ならずも断念する」ということだ。

    朝日の「良心的兵役拒否国家」から「地球貢献国家」への社説の変更は,残念ながら「変節」と言わざるをえない。

    2.良心的兵役拒否国家の訴え(1995年5月3日)
    本書「はじめに」の要約によれば,1995年5月3日の社説は次のようなものであった。

    “憲法9条と自衛隊や安保の関係について,私たちの先輩たちは長く熟慮し,悩んできました。そして「戦後50年にあたる95年5月3日に社説特集を組み,一つの結論を得ました。「良心的兵役拒否国家」の考えで「非軍事こそ共生の道」と訴えたのです。
     国際協力は非軍事に徹する。9条の趣旨から自衛隊の目的はあくまで国土防衛に限られ,海外派遣は許されない。国連平和維持活動(PKO)には別組織をつくって派遣すべきだ。自衛隊は段階的に縮小し,やがて「国土防衛隊」(仮称)に改編する――そんな提言でした。” (
    p.iv)

    この要約は間違いではない。しかし,原文のニュアンスははるかに積極的で,社運をかける意気込みがひしひしと感じられる。冒頭部分はこうなっている。

    “人類と地球を守るために日本は何をすべきか――敗戦五十年という節目の年を迎えるにあたって,朝日新聞はこの五年間,全社規模で討議を重ねてきた。憲法記念日のきょう,その成果を踏まえて執筆した社説と特集「国際協力と憲法」を掲げ,読者とともに考える素材としたい。
     ○益より害が大きい改憲
     私たちの結論は次の二点に集約される。(1)現憲法は依然としてその光を失っていない。改定には益よりもはるかに害が多く,反対である (2)日本は非軍事に徹する。国際協力にあたっては,軍事以外の分野で,各国に率先して積極的に取り組む。
     つまり非軍事・積極活動国家だ。国と個人の違いを承知のうえで,あえて比ゆ的に言うならば良心的兵役拒否国家,そんな国をめざそうというのである。
     個人の良心的兵役拒否は,米英仏などの先進諸国ですでに法的に認められている。徴兵制をとっているドイツも,基本法(憲法)で「何人も,その良心に反して,武器をもってする軍務を強制されてはならない」と定めている。こういう考え方を国家にあてはめてみてはどうだろうか。
     血を流すことが国際協力だと言う人は,これを利己的すぎると非難するだろう。個人の良心的兵役拒否も,長い間,批判され圧迫を受けてきた。だが,個人であれ国であれ,「殺すな」という信条を貫こうとすれば,これしか方法はあるまい。”(
    1995年5月3日社説)

    これは5年間の全社的討論の結論であり,朝日が「信条」として確認したものだ。これを読んだ読者の多くは,朝日は本気だと信じ,大いに意気に感じ,崇高な良心的兵役拒否国家への道を朝日と共に歩もうと決意したにちがいない。

    3.海外派兵の事実追認
    ところが,朝日は,自ら高く掲げたこの「良心的兵役拒否国家」の理念を実現するための努力らしい努力もせず,それに反する事実がでてくると,ズルズルそれを追認していく。本書「まえがき」はこう説明している。

    “熱い思いに満ちた提言でしたが,それから12年,残念ながらそのようにはなりませんでした。いや,むしろ日本は反対の道を歩んできたともいえます。ならば,今日の国際状況や国民意識に照らして、もう一度説得力のある論を再構成して展開すること。それは私たちが問われていた課題でした。
     日々の社説では必要に応じて新たな主張を打ち出していました。例えばPKOです。カンボジアに最初のPKOを出して満10年を迎えた02年9月,社説は「もはやPKOを自衛隊の本務にし,そのための専門部隊を設けよう」と,方向転換を明確にしていました。
     もちろん現状追認ばかりではありません。米国が始めたイラク戦争に強く反対した私たちは,戦火のやまぬイラクヘの白衛隊派遣にも反対の論陣を張りました。では,自衛隊は何をすべきで,何をすべきでないのか,私たちの考えを整理して打ち出す必要を感じていたのです。” (
    p.iv-v, 赤字強調は引用者,以下同様)

    これは変説の「ごまかし」と「いいわけ」でしかない。朝日の本気を信じた何百万もの読者への背信行為とさえいっても言い過ぎではあるまい。

    4.前提条件は変化していない
    変説が必要なのは,先述のように,誤りが見つかったときと,説の前提条件が変化したときである。

    本書「まえがき」は,良心的兵役拒否国家の提言に誤りがあったとは一言も言っていない。したがって,わずか12年後の現在,自らそれを否定する理由は,説の前提となる状況が変化したという理由だけである。

    しかし,朝日が良心的兵役拒否国家を訴えた12年前と現在とで,世界全体の構造は基本的には変わっていない。1991年のソ連崩壊で冷戦は名実ともに終わり,グローバル資本主義への流れは1995年にはもう明確となり,基本的にはそれが現在も継続しているのだ。世界平和を考えるための基本的前提条件は,当時と本質的には変わっていない。それでは,なぜ朝日は説を変えたのか?

    5.現状追認
    朝日の変説の理由は,日本の「現状追認」だけである。先の引用文を見ていただきたい。「日本は[提言とは]反対の道を歩んできた」から,朝日もそれに社説を合わせ「方向転換」したのである。赤字で強調した「ならば」のここでの違和感が,これが現状追認による変説であることを何よりも雄弁に物語っている。

    また,1995年提案のわずか7年後に,「もはやPKOを自衛隊の本務にし,そのための専門部隊を設けよう」と言い放ち,平然としていられるのも,現状追認の変節による変説だからである。

    1995年以降,世界の基本構造は変わっていない。また,日本政府の海外派兵政策も,すでに1992年にPKO法が成立しており,その強化はあっても,根本的な方針それ自体の変更はない。95年朝日社説はそれらを前提として書かれており,たとえPKF本体業務参加凍結解除(2001年)などがあったとしても,それは変説の合理的根拠たりえない。PKO法が成立すればそうなるであろうことは当然予測されていた。朝日も,そう予測したからこそ,それを阻止するために良心的兵役拒否国家を提唱したはずだ。それなのに,日本が提言とは「反対の道」を歩み派兵政策が既成事実化したという理由で,朝日はそれを追認し,政府に追従する。これはもはやジャーナリズムとはいえない。それは「変節」であり,無節操な現状追認,ジャーナリズムの御用化だ。

    本書「はじめに」は「もちろん現状追認ばかりではありません」と述べ,図らずも現状追認を自ら白状することになっている。さすが朝日,正直である。が,正直に告白したからといって,ジャーナリズムにおける現状追認の罪が許されるわけではない。

    6.現実主義の陥穽
    朝日が「方向転換」や「現状追認」を自ら告白し,海外派兵路線に転換して平然としていられるのは,丸山真男がいう「現実主義の陥穽」にはまってしまったからである。

    “現実とは本来一面において与えられたものであると同時に,他面で日々造られて行くものなのですが,普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは,既成事実に屈伏せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき,それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに,現実はいつも,「仕方のない」過去なのです。私はかつてこうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に喰入り,それがいよいよ日本の「現実」をのっぴきならない泥沼に追い込んだかを分析したことがありますが,他方においてファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行ったのもまさにこうした「現実」観ではなかったでしょうか。「国体」という現実,軍部という現実,統帥権という現実,満洲国という現実,国際連盟脱退という現実,日華事変という現実,日独伊軍事同盟という現実,大政翼賛会という現実――そうして最後には太平洋戦争という現実,それらが一つ一つ動きのとれない所与性として私達の観念にのしかかり,私達の自由なイマジネーションと行動を圧殺して行ったのはついこの間のことです。”(『丸山集』第5巻,p194-195,原文傍点部分は太字とした。)

    朝日には,かつて丸山学派がたくさんいた。もし彼らがまだ朝日社内で健在であり,師の教えを忘れていなければ,自ら平然と「現状追認」を認め,おめおめと「既成事実に屈服」していられるはずがない。わずか12年,この間に朝日社内で静かなクーデターか何かが起こったのではないか?

    7.地球貢献国家の論理矛盾
    それでも,「地球貢献国家」の提言が理論的,政策的に検討に値するものなら,まだ救いもあるが,実際にはそれは決してそのような代物ではない。

    “「戦争放棄」を掲げ,軍隊をもたないことを宣言した憲法9条は,日本の野心のなさを印象づけています。それは「地球貢献国家」にとって格好の資産。だから9条は変えず,日本の平和ブランドとして活用する方がよいし。アジアで和解を進めつつ緩やかな共同体づくりをめざすにも,あるいは独自のイスラム外交を展開するにも,この憲法を日本のソフトパワーの象徴として生かす方が戦略的ではないか。それが結論でした。
     自衛隊を否定的にとらえたわけではありません。自衛隊は万一のとき役立つ存在として,半世紀以上かけて日本社会に定着した組織です。そして,実は「地球貢献」のため,いま以上に果たせる役割もあるのではないか。
     米国の同盟軍として海外派遣の道を突き進むのではなく,地球の未来を危うくするような破綻国家を世界につくらぬよう,国連が主導する平和構築活動にもう少し積極的に加わるのです。内戦や飢餓で破綻した国の存在は,テロや戦争だけでなく麻薬や感染症などの恐怖を広げる元凶にもなります。その防止もまた「地球貢献」の重要な一環であり,「人間の安全保障」につながるこうした活動は,憲法前文に掲げた精神とも合致するからです。 そして憲法と自衛隊の間にある溝を埋め,自衛隊の存在と役割を明確にするために,準憲法的な「平和安全保障基本法」を制定してはどうか。このように,従来の朝日新聞になかった提言ををしてみました。”(
    p.iv)

    支離滅裂ではないか。まず朝日は,憲法と自衛隊との間に「溝」がある,つまり自衛隊は憲法違反だ,と認めている。そして,その上で,準憲法的な「平和安全保障基本法」を制定し,その違憲の自衛隊の存在を正当化すべきだという。これを「ごまかし」といわずして何と言おうか。それは「既成事実への屈服」にほかならない。

    こんなごまかし憲法論なら,ライバルの読売「憲法改正試案」(1994)の方がはるかにましだ。読売は,自衛隊を合憲としつつも,憲法規定の曖昧さを認め,それを解消するための憲法改正を主張している。「第12条(1)日本国は,自らの平和と独立を守り,その安全を保つため,自衛のための軍隊を持つことが出来る。」正々堂々たる改憲論であり,軍隊保有に論理矛盾はなく,スッキリしている(『憲法 21世紀に向けて』読売新聞社,1994)。

    海外からすれば,不安なのは,論理矛盾がなく合理的に理解し反論できる読売案よりも,むしろ既成事実に屈服しつつ変節し変説する朝日ごまかし憲法論だ。

    朝日は,一方で「戦争放棄を掲げ、軍隊をもたないことを宣言した憲法9条」と言いつつも,他方では「自衛隊を否定的にとらえたわけではありません」という。軍隊を持たないといいつつも,「自衛隊は万一のとき役立つ存在として、半世紀以上かけて日本社会に定着した組織です」とか「いま以上に果たせる役割もある」といっている。

    朝日は,そんな頭隠して尻隠さずの憲法論により,9条を「平和ブランド」として活用せよという。

    8.危険な平和偽装
    朝日は諸外国をなめているのではないか? こんな見え見えのごまかし9条論が「平和ブランド」として通用すると考えるのは,まったくもって脳天気だ。このような人をバカにしたような9条論を聞かされたら,諸外国は「なめんじゃない!」と怒り,何か下心があるに違いないと警戒するに決まっている。

    朝日は,トンデモナイ思い違いをしている。9条が「日本の野心のなさを印象づけて」きたのは,曲がりなりにも,9条が日本の軍事化を抑制してきたからだ。9条に依拠して多くの人々が日本の軍事化に抵抗してきたからこそ,9条は「平和ブランド」たりえたのだ。

    それなのに,朝日は,額縁だけ残して中身を入れ替え,「平和ブランド」で売ろうとしている。羊頭狗肉,食品偽装ならぬ平和偽装だ。

    こんな平和偽装にだまされるほど,世界は甘くない。朝日は「地球貢献国家」を撤回し,「良心的兵役拒否国家」に立ち戻るべきだろう。

    6/30/2008

    ヤミ制憲議会と生臭大統領

    谷川昌幸(C)
    1.制憲議会の違憲性
    いまのネパールは,法治(rule of law)なのか,それとも革命(クーデター)状況なのか?
     
    法治でないことは明白だ。なぜなら,暫定憲法により選挙したものの,制憲議会(CA)は正式にはまだ成立していないからだ。 内閣指名の26議席がまだ空席。憲法規定の定数601のうちの26だが,包摂原理のための憲法的工夫でもあるこの26議席が埋められていないのは,数以上に原理原則において問題である。
     
    現在のCAには合法性はない。国権の最高機関たるものが,平気で違法行為を行っている。山賊集会と変わらない。
     
    むろん,革命(クーデター)状況なら,法律に従う必要はない。革命(クーデター)勢力がすべてを決める。革命(クーデター)独裁。
     
    ネパールの現体制は,革命(クーデター)独裁体制なのだろう。しかし,もしそうなら,独裁3党は,女々しく「法の支配」や「民主主義」などと言い訳をすべきではない。暫定憲法も他の法も無視し,非合法CAで人民のための独裁政治をやっていく,と堂々と宣言すべきだ。
     
    2.生臭大統領
    この奇怪な制憲議会では,これまた珍妙な大統領論議が繰り広げられている。
     
    セレモニアル(儀式)大統領だそうだが,いうまでもなく「儀式的」とは「実権を持たない」という意味だ。何を聞かれても「あ,そう」と答える。理想的には息も食事もしないこと。生臭い発言や排泄が不要だからだ。セレモニアル元首には,それほどの威厳が求められる。
     
    それなのに,いったい何だ。セレモニアル大統領を国軍司令官とし,はては諸勢力の調整役とするのだそうだ。パワーシェアリング(権力分有)のポストなどと,アホなことを言っている。だったら,セレモニアルなどというべきではない。
     
    独裁3党のセレモニアル大統領は,限りなく,かつての「国王」に近づいていく。ネパールの混乱は,政治的混乱というよりは言語的混乱だ。論理学初歩の訓練から始めるべきだろう。
     
    3.約束を守ることから始めよ
    難しいことではない。まずは約束を守ること。暫定憲法は全国民,全世界に対する公約だ。その約束の下に選挙したのだから,その通り実行せよ。実行できないのなら,CAを解散し,新しい公約を掲げ,選挙をやり直すべきだ。
     
    国権の最高機関が,ごく初歩的な約束ですら無視し,恬として恥じない。革命(クーデター)状況だから,何でも許される。ネパール式人民主権とは,こういうことか。
    6/3/2008

    共和制宣言,取消となるか?

    谷川昌幸(C)

    すでに指摘したように,先の制憲議会開会は,内閣指名26議員の指名なしに開会されたものであり,違憲である。これは,党派とは無関係の憲法原理の問題だ。ハナから,こんないい加減なことをやってはいけない。

    今日の新聞によれば,ラム・クマール・オジャ弁護士が,制憲議会開会違憲訴訟を起こし,最高裁で審理されるそうだ。日本の御用最高裁でも,こんな明白な憲法違反であれば,違憲判決を出すに決まっている。権威あるネパール最高裁もきっと違憲判決を下すだろう。

    そうなれば,連邦共和制宣言は,もちろん取消。また王制に戻る。

    さて,暫定憲法(前文)では「法の支配」が高らかに宣言されている。議会が「満場一致」で可決した憲法だ。自分たちが決めた憲法だ。「法の支配」は「人の支配」ではない。「人民の支配」でもない。

    これは見物(みもの)だ。よ~く見ていよう。