ネパール評論

ネパール研究会

書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(2)

谷川昌幸(C)
1.A Novelist Writing in the Japanese Language
水村氏の日本語・日本文学への思いは,深く屈折している。彼女自身は,日英両語の「二重言語者」であり「バイリンガル」である。おそらく英語は読み書きも会話も完璧であろう。著者の日本語ナショナリズムは,英語が出来ない者のルサンチマン的国語国粋主義とはまったく別物なのだ。
 
たとえば,インターネットによる英語の普遍言語化を憂いながら,著者は自ら英語中心のホームページ(http://minae-mizumura.com/default.aspx) を開設している。タイトルは:
  水村美苗 ・ MINAE MIZUMURA ・ Website
  日本語で近代日本文学を書く小説家
  A Novelist Writing Modern Japanese Literature in the Japanese Language
何たるイヤミか! 国語ナショナリストの著者が,自分の氏名を英語に合わせて転倒させ,しかも「日本語で近代日本文学を書く小説家」と自己規定している。英語も英米文学も大抵のアメリカ人以上に理解するが,にもかかわらず自分は日本語で書く,という自信と矜持。ヒガミ日本国粋主義とは雲泥の差だ。
 
この「にもかかわらず」,ウェーバー流にいえばdennoch(脇圭平訳『職業としての政治』岩波文庫,p106)こそが,私にとっては著者の最大の魅力だ。イヤミたらたら,表音主義ニホンゴ化論やカタコト小学校英語を皮肉り倒す。英語なんか選択科目にしてしまえ(p289)――著者にそういわれると,たしかにそうだと納得する。英語は選択科目でよいのだ。
 
英語はペラペラだが,にもかかわらず母語ではない。英語への著者の思いは,日本語へのそれと同じく,深く屈折している。そのことは,著者自身も告白している。
 
ご存じのかたもいるかもしれないが、私は十二歳で父親の仕事で家族とともにニューヨークに渡り、それ以来ずっとアメリカにも英語にもなじめず、親が娘のためにともってきた日本語の古い小説ばかり読み日本に恋いこがれ続け、それでいながらなんと二十年もアメリカに居続けてしまったという経歴の持主である。(p15)
 
「それでいながら」アメリカと英語の中で20年も暮らし,にもかかわらず母語であるが故に日本語を選択し亡び行く日本語で書く。その著者の幾重にも屈折した文化的格闘に基づき展開される日本語論,日本文学論が面白くないはずがなかろう。
 

Written by Tanigawa

2009/06/10 @ 11:22

カテゴリー: 文化,

Tagged with , ,